【しろまる先輩は距離感がおかしい。】7話「海なし県民の川井ちゃん」
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職場の先輩に誘われたホテルのランチビュッフェは、味、ロケーションともに大満足の内容で、はるばる熱海までやって来た甲斐があった。
「この後どうしましょうか」
戻りのバス待ちの折、満腹になった腹をさすりながら雪音が言う。
「せっかくだし、もうちょっと散策してく?」
「賛成です!」
普段旅行をしない雪音にとって、今日の熱海旅は目に映るものすべてが新鮮だ。それに、深谷市民の彼女には、熱海でもっとゆっくり見たいものがあった。
◆ ◆ ◆
雪音一行は駅行きのバスを適当なところで下車し、熱海サンビーチ近くのムーンテラスにやって来た。
潮風を間近に感じられる岸壁のデッキからは、海、砂浜、そして、東洋のモナコとも称される熱海のホテル街を一望することができた。まだ本格的な海水浴のシーズンではないものの、靴を脱ぎ素足で海に入っている人の姿も見受けられる。
「わぁぁあ!海!海ですよ先輩!」
「そだね」
柄にもなく無邪気にはしゃぐ雪音と、その様子を見守る先輩。ビュッフェ会場にいた時とはテンションの温度が正反対だ。
「……川井さんは、海がすきなの?」
ご機嫌な背中に、先輩が問いかける。雪音の返事は決まっていた。
「そりゃあもう、海なし県民ですから!家と畑ばっかの深谷には飽き飽きしてますよ!だから海を見るとついテンションあがっちゃうんです。ホテルからのも眺めよかったですけど、やっぱり海岸で海風を感じると気持ちいいですね〜!」
当然だが、埼玉県には海がない。関東平野のど真ん中で育った雪音にとって、海は見るだけで気分が高揚する魔法の景色だった。
「そっか。楽しんでもらえたなら何より」
「はい。熱海に行こうって誘われた時は正直びっくりしましたし、なんなら行きの電車の中でも「やっぱり遠いじゃないか」って後悔してましたけど、最終的な感想として今日熱海に来れてよかったって思ってます」
自然と言葉が溢れる。
「私……就職してからずっと、働くってなんだろう。社会人ってなんだろう。自分は何のために生きているんだろうって思いながら、数ヶ月間過ごしてきました。
……でも、
少ない休日を趣味に全振りする先輩と出会って、こうして休日に遠くへ出かけて、人生の視野が広がったというか、……なんだかすごく気分が晴れました。私を連れ出してくれて、ありがとうございます」
それは、上司の唯にも、地元の友人にも、家族にも話したことがない本音だった。なぜ先輩の前で素直になることができたのかは、雪音自身にもよくわからない。
「そっか」
「………………」
「じゃぁ……あの、また誘ってもいい?」
「……はい、もちろん!」
海で遊ぶ子供たちの声をはらんだ潮風が、2人の間を吹き抜ける。あらたまって考えると小恥ずかしいやり取りに、雪音は自分の顔が紅潮していくのを悟った。幸い、傾きかけの太陽が辺り一帯を紅く染めあげていたおかげで、あすかには気づかれていない。……と、願いたい。
「ところで川井さん」
「ひゃい?!なんですかっ?」
真剣な眼差しでこちらを見据えるあすかの問いかけに、緊張が走る。
「……(ジッ)」
「…………(なんだろう。照れてるのバレちゃったかな?)」
「……熱海は、近場だよ」
距離感がおかしい先輩は、平常運転だった。
◆ ◆ ◆
海を満喫した雪音と先輩は、熱海駅へ向かって歩き始めた。
国道の信号待ちをしていると、目の前を1台のオープンカーが颯爽と通り過ぎる。サングラスの運転手の男と助手席にいたブロンドの女が、まるで海外ドラマの中から飛び出してきたかのような光景を夕暮れの伊豆に撒き散らしていった。
「いいですねー。オープンカー。私、運転は嫌いですけど、こーゆう海沿いとかなら気持ちよさそうだから走ってみたいです」
雪音は、思ったことを率直な言葉にした。
深谷程度都心からの距離があると、日常生活はマイカーがあったほうが圧倒的に便利だ。雪音は高校卒業に合わせて教習所に通わされ免許を取得したが、運転という行為そのものはどうも好きになれなかった。
ちなみに、祖父から「家の手伝いするんなら軽トラ乗れなくてどうする」と叱咤されたせいで、マニュアル免許所持である。
「…………………………」
「先輩……?」
対する先輩の反応は、少し含みのあるものだった。彼女は車に興味がないのか、はたまた免許を持っていないのか。真相が気になった雪音であったが、いつも以上に物憂げな先輩の表情が追求を許さなかった。
もう少し心の距離が近くなってから、聞いてみるとしよう。
(つづく)
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