【しろまる先輩は距離感がおかしい。】1話「華金の女王」
◆ ◆ ◆
入社2ヵ月の新卒社員、川井 雪音には、まだ本格的な業務が与えられていない。今日も雑用を卒なくこなし終え、退社するタイミングを見計らっていた。
…………。
しかし現実は残酷なもので、華の金曜日だというのに定時を過ぎてもオフィスにいる人間の大半が依然としてキーボードを叩き続けている。
性根が真面目な雪音は、未だ奮闘する同僚や上司を置き去りにして退社する行為に抵抗を覚え、いつも無駄な居残りをしてしまう。無難なタイミングで退社をするのは、簡単なようでいて難しい。
諦めて暇潰しのネタを探そうとした、その時だった。
「お疲れさまでした」
突如として斜め向かいの席から退社宣言が飛び出した。室内を満たしていた喧騒が途絶え、声の発信源に視線が集まる。
立ち上がったのは、どこか物憂げな雰囲気を纏った栗色ショートヘアーの女性。か細い体躯に少々不相応な、大きめのリュックサックを携えている。
彼女の名前は、白丸 あすか。雪音と4つほど歳の離れた先輩社員だ。
先輩はその場で小さく一礼すると、踵を返し、周囲の反応など意に介さず退室していった。出入口の戸が閉まり、カチリとセキュリティの施錠音が鳴る。
「女王様は今日もブレないなぁ」
先輩の気配が完全に消え去り、再び室内にキーボードを叩く音が充満し始めると、隣から厭味ったらしい台詞が聞こえてきた。
雪音の直属の女上司、岩館 唯だ。
女王様とは、しろまる先輩のことである。
金曜日に決まって定時退社をすることから、彼女は社内で密かに「華金の女王」と呼ばれているのだ。当の本人はきちんと自分の仕事を片付けてから帰宅しているのだが、あまりに潔すぎる定時退社を快く思わない者もいた。
「……でも、仕事終わってるならいいんじゃないですか」
雪音が自分も早く家に帰りたいという意思を込めて言うと、唯がギロリとこちらを睨み嘆息した。
「川井ちゃん、社会人にとって大事なものはなんだと思う?」
上司からの質問のなかで、かなり厄介な部類の問いだ。唯の面倒なスイッチを押してしまったことを雪音は悔いる。
「時間に正確とか……報連相を徹底するとか……ですか、、、」
ありきたありな回答が絞り出されると、唯は予想通りといった表情を顔に貼り付け、高らかに続ける。
「それもそうだけど、私がいっちゃん社会人生活で大事だと思ってるのは、建前を大切にすることね」
「建前……ですか?」
「そ。最近はパワハラだのモラハラだのうるさいから、定時に帰りたい奴は帰ればいい。でもね、仕事ができても、周りが見えてなかったら相手にされなくなるよ。自分の意見を押し殺して首を縦に振る。自分だけ仕事が終わったなら他を手伝うか忙しいフリをする。建前を優先して周囲と同調しておくのが、世渡り上手になる秘訣。……簡単に言えば、空気を読めってことね」
「は、はぁ」
熱が籠る唯の答弁に、つかみどころのない返事を返す雪音。
「ま。若いうちは場の流れに素直に従っておけばいいの」
改めて釘を刺したうえで、雪音をジッと見つめる唯。
「……なんですか?」
「川井ちゃん、今日飲み行かなーい?」
(うわぁ……やられた……)
この流れで誘われたら断れない。つくづく唯には敵わないと痛感しながら、雪音は建前で頷いた。
◆ ◆ ◆
結局、社内が終業モードになる20時近くまでオフィスに居残りをしたのち、雪音は職場近くの安い居酒屋チェーンへと連行された。
学生時代の楽しいだけの飲みとは違い、上司との飲みは大半が愚痴や過去の話を聞かされるだけ。善人ぶらずにありのままの社会人教育を施してくれる唯のこと自体は嫌いではないが、貴重な金曜日の夜を潰された事実は変わらない。
唯が毒を吐き終わって満足し、雪音が解放されたのは23時前だった。通勤経路の東京駅に向かい、なんとか間に合った終電に乗り込むと、ふとある人物のことが脳裏をよぎった。
(しろまる先輩は、今なにしてるのかな……)
彼女は会社の行事や飲み会に参加せず、親しくしている同僚の存在も聞いたことがない。そのプライベートは謎に包まれている。
唯に言わせれば社会人失格なのだろうが、周りからどう思われようと自分の時間を優先する彼女の在り方に、雪音は密かに興味を抱くのであった。
(つづく)
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