【しろまる先輩は距離感がおかしい。】2話「深谷市民の憂鬱」
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その金曜日は業務上のトラブルが重なり、オフィス内が1日中慌ただしかった。新米の雪音は戦力外だったものの、コピーや資料整理、夜食の買い出しなどをこなすサポート役に徹し、同僚たちと共に残業をした。
目下の課題がやっと解決して、社内の空気が弛緩したのは22時を過ぎた頃。
(あぁ、やっと帰れる……!)
普段定時後に意味もなく社内に留まっていた時とは違う、心地よい疲労感が雪音を包み込んだ。周囲の人間も皆、心なしか満足げな表情を浮かべている様子だ。
ふと気になって、雪音はチラリと斜め向かいの席に目を向ける。
そこには金曜日は頑なに定時退社をすることに定評のある、華金の女王こと白丸あすかの姿があった。流石の女王様でさえも、今日ばかりは居残りを強いられたようだ。
先輩は時計とスマートフォンを交互に見て、何やら難しい顔をしている。やはり今夜も何か予定があったのだろうか。
程なくして上長からトラブルが無事に収束した旨のアナウンスがあり、社員たちは一斉に退社した。
◆ ◆ ◆
23時を過ぎた東京駅の在来線ホームで、雪音は頭上の電光掲示板を見上げ嘆息した。
23時19分発、高崎行き。
先週も唯との飲みに付き合った結果、終電に乗ったことを思い出す。2週連続だ。
雪音は埼玉県の深谷にある実家で、父とその祖父母との4人で暮らしている。病弱だった母親は、雪音がまだ幼い頃にこの世を去った。
就職後は一人暮らしをしたいと考えていた雪音であったが、都心の家賃が思いのほか高額であったことと、高齢の祖父母の生活にできるだけ寄り添い、男手ひとつで家業を支える父の負担を減らすため、実家からの長距離通勤を選んだのだ。
そんな彼女の通勤路線である高崎線には、深谷のひとつ手前の籠原駅を終着とする列車が存在している。深谷以北の沿線民はこの列車で帰宅することができず、終電の時刻が繰り上げられていた。
まさにカゴハラハラスメント。人呼んで「カゴハラ」だ。
あと1時間で日付も変わるというのに、深夜の東京駅は人が多い。雪音が見飽きた緑とオレンジラインの電車に乗り込むと、車内はかなり混雑していた。着席戦争に出遅れ、仕方なく吊り革を掴む。
ゴウン……
23時19分。
15両編成いっぱいに乗客を詰め込んだ終電が動き出した。
窓の外を流れる東京の街は眩しく、遥か頭上の夜空でさえも仄かに白ませている。煌々と輝くビルの灯りは華金の営みか、それとも未だ平日に囚われている社畜の灯か。
列車が駅に停車する度に多くの乗客が降車していったが、しばらくはそれとほぼ同数の乗車があり、車内は相変わらずの混雑率が保たれていた。予定の駅に到着し目の前の家路につく者と、これからさらに遠くの家路へ向かうために列車に乗り込む者とが、忙しなく入れ替わる。
0時1分。
日付が変わってから最初に停車した上尾駅でどっと乗客が減り、雪音はやっと座ることができた。
「もう土曜日かぁ」
固いシートに腰を下ろすと全身の力が抜ける。帰宅中に休日を迎えた事実に雪音は苦笑した。
この列車の深谷到着は0時44分。
そこから歩くか、タクシーを拾って、家に着くのは午前1時。
家族は皆寝静まっていることだろう……
社会人になってからというもの、毎日朝早くに家を出て、夜遅くに帰宅してばかりいる。それを5日間繰り返して得られるのが、2日間の休日。
家と職場を往復するだけの無機質な日々が、自分の時間と個性を少しずつ蝕んでいるような気がした。
(私は、何のために生きているんだろう……)
先刻仕事で感じた達成感のある疲労とは違う、人生の根本から湧き上がった心労が雪奈を襲う。
列車はモーターを唸らせ、濃密な夜の中をひた走る。断続的なレールのジョイント音と身体を伝う振動が、段々と雪音の意識を鈍らせ、瞼を重くした。
熊谷駅から複数の乗客が乗ってきたのを確認したあたりで、雪音の記憶は途絶えたのだった。
(つづく)
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