天涯客 引用古典籍 42章〜50章
今回から目次をつけてみました。
これで多少見やすくなると良いのですが💦
今回の42章から繁体字版書籍の下巻に入っています。いよいよ折り返し。
さすがに話が進んでネタバレなしで書くのは難しくなってまいりました💦
重要なネタバレに該当する箇所を★印で挟んでいますので、読みたくない方はそこを飛ばしてください🙇
42章 汩餘若將不及兮,恐年歲之不吾與……
・周子舒が突然吟じた歌(詩)
*出典*
屈原「離騷」(第一段)『楚辞』(戦国楚)
帝高陽之苗裔兮 朕皇考曰伯庸
攝提貞于孟陬兮 惟庚寅吾以降
皇覽揆余初度兮 肇錫余以嘉名
名余曰正則兮 字余曰靈均
紛吾既有此內美兮 又重之以脩能
扈江離與辟芷兮 紐[1]秋蘭以為佩
汩余若將不及兮 恐年歲之不吾與
朝搴阰之木蘭兮 夕攬洲之宿莽
日月忽其不淹兮 春與秋其代序
惟草木之零落兮 恐美人之遲暮
*書き下し文*(部分)
汩(いつ)として余将に及ばざるが若し、年歲の吾を與(ま)たざるを恐る。
朝(あした)に阰(おか)の木蘭を搴(つ)み、夕べに洲の宿莽を攬(と)る。
日月忽ち其れ淹(とどま)らず、春と秋と其れ代序す。
草木の零落せるを惟(おも)ひ,美人の遲暮せるを恐る。
*私的意訳*
急流のように時は速やかに流れゆき、追いつけなくなりそうで、年月は私を待ってくれないのではないだろうかと思うと恐ろしい。
朝には山の斜面の木蘭を摘み、夕方には中州の宿莽を採る。
日月はあっという間に過ぎていき、春と秋が代わるがわる過ぎていく。
草木が枯れていくのを思うと、美人が老い衰えていくのが恐ろしい。
*語釈*
・汩=水が急速に流れる様子。
・與:複数の意味があるが、ここは待つの意。
・搴=摘む。
・阰=山の斜面。
・揽=採る。
・宿莽=草の名前。冬も枯れない草。香草。
・淹=停留する。とどまる。
・代序=絶えず入れ替わること。
・惟=思い至る。
・遅暮=老い衰えること。
「離騒」はものすごーく長いので、ここは第一段だけを引用しました。
全文はリンク(台湾wiki)をどうぞ。
★以下、がっつりネタバレします‼ ご注意ください‼
*私感*
ここは烏渓が阿絮を診断したあと、一切の武功を廃せば生き延びる道があるかもしれないと言ったのを受けて、武功を失って生き延びたとして俺は俺なのか? 何のために生きているのだ?と言って去り、それを温客行と張成嶺と顧湘が追いかけていく場面。
そこで阿絮が歩きながら突然歌い始めたのがこの「離騒」です。覚悟はしていたといっても、阿絮はやっぱり烏渓の診断に一縷の望みをかけていて、でも結果は武功をすべて廃すなら二割の可能性があるかもしれないという阿絮には受け入れがたい結果だった。結局自分の死は避けられず、その現実にも直接弱音を吐かない阿絮の思いをこの詩が代弁しているのだと思うとやるせない😭
失ったものへの哀しみや自分を理解するものはいないといった様々な温客行の思いを代弁したのが「黍離」ならば、阿絮の死からは逃れられないという嘆きのような憤りのような絶望のような諦念のような、そんな割り切れない思いを代弁するのが「離騒」なのかなと思うのです。
一方は詩経から、一方は楚辞から、どちらも最古級の詩から引用してきたのは意図的なのではないかと思うのですが、どうなんでしょう。
そして阿絮が離騒を吟じたのを受けるように温客行が嘆く様子が次の言葉。
★ネタバレここまで★
*追加*
中国のサイトですが、↓には四庫全書の絵も載っているのでよろしければどうぞ。
42章 為什麼英雄總歸末路?……
・温客行の内心
ここに使用されている言葉は成語なので、本来この記事には載せないものなのですが、阿絮が諳んじた詩を受けての言葉で、尚且つ②の成語の出典となった詩を引用したかったので書いておくことにします。
★以下ネタバレします‼
①と②、どちらもどうにもならない追い込まれた状況を示す言葉で、阿絮の余命を伸ばす打開策がなく希望が見えない状況に対し、どうしてなんだ、英雄は結局死ぬしかないのか、美人も結局老いるしかないのか、同じように阿絮も死ぬしかないのか、という老温の嘆き。阿絮の離騒の後にこれが来るともう……😭
★ネタバレここまで★
*出典①*
成語「英雄末路」
『離騒』の「美人遲暮」とセットで使われることもあるようです。男女両方の衰えゆく様子を言おうとするとセットになるのでしょうかね。最も、離騒の美人は解釈が色々あって必ずしも女性を指すとは限らないようですが、成語で言うのは女性のことてしょう。女が老いるのは死ぬのに等しいと言いたいのか?💢と思いつつ、それはさておき。
この言葉は、才能のある人物が行き詰まり手の打ちようがない状況を示す表現。中国の国語辞典で挙げられている例文は項羽の四面楚歌の場面でした。老温の気持ちを考えると……😭
*出典② *
成語「紅顔暗老」
青春に輝く美しい容貌が知らないうちに衰え消えていくこと。白居易の「上陽白髪人」に由来する言葉。老温の言葉と完全一致ではないですが、おそらくこの成語をもじったものかと思います。出典の詩を引用します。
*書き下し文(部分)*
上陽の人 紅顔暗に老い 白髪新たなり
綠衣の監使宮門を守る 上陽に一閉さるること春多少
玄宗末歳 初めて選入せり 入りし時十六、今六十
同時に采擇せらる百余人 零落し年深まりて此身残る
(中略)
上陽の人 苦最も多し
少(わか)きも亦た苦しみ 老いても亦た苦しむ 少苦老苦両(ふた)つながら如何にせん
君見ずや昔時の呂向の美人賦を 又見ずや今日の上陽の白髪歌を
*概要*
玄宗皇帝の後宮に入れられたものの、楊貴妃に美貌を妬まれ別宮(上陽宮)に閉じ込められて、一度も皇帝の寵愛を受けることなく老いた宮女の嘆きを白居易が歌い上げたもの。実在した宮女を詠ったものかどうかはわからないが、16歳で後宮に入り、今は60歳。高齢のため役職こそ賜ったものの、人生の喜びを知らないまま苦しいことばかりの人生が過ぎ、いつの間にかすっかり白髪の老女になってしまった……という嘆きの歌。やだなあ……。まあ、こういう宮女はいくらでもいたでしょうね。殺されなかっただけマシか。
最後の方にある呂向の「美人賦」にあるように、当時は毎年各地の美女を集めて後宮に入れる「花鳥使」という制度があり、この宮女はおそらくその「花鳥使」に召し上げられて後宮に入ったのだろうと思われます。
蒼梧賓白先生の『黄金台』番外(たぶん番外だったと思う)で、主要人物(ネタバレなので伏せます)の母親が同じような感じで後宮に入れられて、色々あって産後すぐに死んでしまうという話がありました。この花鳥使とかがモデルだったのかなあと思ったり。あ、『黄金台』おすすめです! 是非読んでみてほしい‼ 甘々ですよ‼ 結婚(賜婚)から始まる恋、激重執着攻め×つよつよスパダリ受けです‼
えー、話が逸れてしまいましたが、この詩の詳しい解説は↓など(例によって中国のサイトですが)。
46章 同生共死
🏔️でもお馴染み。来ましたよ〜、このセリフ‼️😆
言わずとしれたあの言葉。
天涯客では阿絮が言います。ただし、温客行をからかうために😂
どういう場面かと言うと、龍淵閣(🏔️と混同してました💦 2025.01.15.訂正)傀儡荘に向かう道すがら、張成嶺が龍雀はどうしてこんな所に住んでるのだろうという疑問を口にし、それに周子舒と温客行が答えるのですが、温客行は張成嶺への解説に続けて、「おまえの師父がいなくなったら、私もどこかに隠棲するかもしれないな」的なことを言うのですね。軽い口調ながら実のところ本心ですよね!?と突っ込む腐女子は置いておき、これに対して周子舒が「おまえは俺と生死を共にするんだと思っていたがな?」と突っ込むんです。周子舒の方はこの時点では冗談を言ってるだけという感じですが、この二人の会話を受けて張成嶺が伯牙の話を出してくるんですね〜🤭 そして気まずくなり?沈黙する二人🤭
と、長くなりましたが改めて。
言葉の意味は言うまでもないと思いますが念の為。
生死を共にすること。情誼が極めて深いことを形容する言葉。
*出典
『隋書·鄭譯傳』(隋書巻三十八・列傳第三)
鄭譯與朕同生共死,間關危難,興言急此,何日忘之。
*私的意訳*
鄭譯と朕(隋文帝)は生死を共にし、苦難の道のりを共に歩み、危難を共にした仲である。そのことを一日たりとも忘れたことはない。
*語釈*
・ 間關=複数の意味があるが、ここは、道が険しく曲がりくねり、進むのが困難であること。
腐女子的には萌える言葉なのですが、出典はそんないい感じの話ではない。ここに引用した分だけだとよさげに見えるかもしれませんが、文章の前後と鄭譯という人物について知ると😑←こういう顔になります。
いいのよ。言葉は出典から独立してるんだから😑
46章 伯牙絶弦
・張成嶺の台詞
これまたドラマの方でもお馴染みのやつですね🤭
というか色々な作品に引用される超有名故事。
*出典
馮夢龍・編「伯牙絶弦(俞伯牙摔琴謝知音)」『古今小説』第十九卷(後に再編改題した『警世通言』第一巻に収録)(明代)
全文は長い(私も全文は読んでない……)ので、↓リンクを載せておきます。
リンク先は台湾wikiの『警世通言』第一巻
*概要
琴の名手であった俞伯牙は柴夫の鍾子期と出会った。鍾子期は彼の演奏を聴いて「峨峨兮若泰山(峨峨として泰山の如し)」「洋洋兮若江河(洋々として大河の如し)」と感嘆した。有名な「高山流水」の知音の由来となった話である。鍾子期の死後、俞伯牙はこの世にもう知音はいないと感じ、生涯二度と琴を弾くことはなかった。
張成嶺から見て、もし温客行が周子舒を失ったら俞伯牙のようになって世を捨てるのではないかと思えたってことですね!
グッジョブ成嶺‼️👍
50章 臣死且不避,卮酒安足辭?
・虫の息の龍雀が、それでも旧友との約束を守ろうとする様子を見た周子舒が感じたこと。
*出典
『史記』「鴻門之会」樊噲の言葉
※卮は杯・盃の意味だが、その容量はおよそ400~2000ml。死さえ辞さないのだから、大量の酒を飲まされる(しかも豚の生肉を食べた後の二杯目)のも断ったりしない、主人のためであればどのような危険も顧みないという話。
*私的意訳*
臣(自分のこと)は死さえ避けないというのに、どうして卮酒(大杯の酒)を断るでしょうか。
息子の手で残酷に傷つけられ、既に余命僅かの龍雀が、それでも仁義を通そうとする様子に感じ入る周子舒。そしていつもの飄々とした仮面が剥がれて真摯な目で龍雀を見る温客行。
……龍伯伯、いい人なんだけど、息子の養育・教育はうまくいかなかったんだよなぁ😭 妻を喪った哀しみがあまりにも深かったために、息子への愛情が伝わらなかったのかもしれない。或いは心のどこかで息子のせいで最愛の人が死んだのだと思っていたのかもしれない。世の中はうまくいかないよね😩
というところで以下次回。