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私の人生 第一章


ASUKAです。一度ここで私についてを語ろうかなと思います。どうぞお付き合いください。

〜生まれてから小学生まで〜
2001年湘南と言われるエリアで生まれ、平凡に育ったはずです。兄と姉がおり、小さい頃から年上に囲まれて育ったので、変にませていたというか、自分はガキじゃないと思っていたガキでした。小さい頃は、可愛かったよね、と私の昔を知る人からは言われるくらいに、幼稚園くらい、いや3歳くらいが全盛期でした。


小学校は兄と姉が通っていた多くの幼稚園の友達も行く地元の公立小学校へ。中々に楽しかったです。宿題大好き、外で走り回るの大好き、男女問わず社交的なタイプだったはず。この時の私の柔軟な脳みそもう一度欲しい、と思うほど、誰に対しても正直に明るく元気にいたような気がします。過去のことなので美化しているでしょうが。

小学生ながらに中々忙しいタイプで、週6習い事、7種類の習い事を同時並行していました。私は両親共働きで、兄と姉は少し年齢が離れていたので、一番下が家にお留守番していたら面倒だということで、母親は私が気になる習い事は全部入れさせてくれました。そして私の唯一の学校終わりに時間がある水曜日は必ず友達と遊んでいました。放課後にみんなで公園に集まってドロケイしたり、誰かの家に行って犬と遊んだり、それはもう楽しさしかなかったな、、。

今まで習った習い事を思いつく限りで並べると、ピアノ、英語、塾、茶道、手話ダンス、フラダンス、サッカー、フットサル、バドミントン、ギター、アトリエ、ボーリング、などなどですかね。物心がついた時にはもうフラダンスや手話ダンスをしていて、習い事の場にいたので、いまだにそういう場は好きで、最近は空手を始めたばかりです。

小学校2、3年生からは結構サッカーに本腰を入れていたなというイメージで、女子サッカーに励んでいました。週2サッカー週2フットサルでした。女子サッカーは中々に家族間も距離が近く、いまだに繋がっている関係もあるのですが、男の子達の中で一人混ざってやるフットサルも中々に私は好きでした。誰も知らないその場所で、人見知りをしながらも、スポーツを通して感じ合えるものっていうのが何より楽しかったなぁと。
まぁそういう感じでとてもアクティブな活発小学生でした。


一転した生活は小5の終わりからスタートしました。その時期に祖父母の家と家を交換して、海まで徒歩10分だったのが、地元での都会の方に引っ越すこととなり、小学校までバスで30分になりました。そうすれば自然と遊ぶ友達も変わってきたり、環境も変わる。今まで同じマンションに住んでいた赤ちゃんの頃からの仲の友達とも自然と距離的に離れることとなる。そして何より、その引っ越した家からでは同じ小学校の友達がみんな行く公立中学には通えないとのこと。隣の中学になってしまう。サッカー仲間で数人知っていた子はいたものの、今の学校の友達が一緒にいて楽しくて、一緒に中学も通いたかった身としては、隣の中学に魅力はなかった。

そこで母が「ラクロスやりたいって言ってたよね?受験するか?」と提案してきた。ラクロスがやりたいと言っていたのは、私が二人はプリキュアを見ていた幼稚園の頃。でも別にこの近くの中学に行くくらいなら、どこか違うところへ逃げたかった。ということでラクロスを言い訳に受験することとなった。中学受験は兄弟でも私だけで、うちの両親はそのガチさを多分知らなかったと思う。だからこそ提案してくれたのだろうが。まずは塾探し。ということでもともと通っていた塾の受験科コースに移動しようかと体験してみたが、中々そこの生徒のクセが強い。どうも馴染めなかった。そしてもう一つ仲良い友達が行っていた受験塾にも体験に行った。そこは牢獄のように静かに勉強している私と同じ小学生とは思えない、天才小学生達の溜まり場だった。知能レベルが高いなとその時ながらに感じた。ただそこの塾に通うには、授業の日程上、サッカーをやめなくてはいけなかった。もう一方の塾であればサッカーを続けられた。サッカーの友人達と一緒に卒団することは一生の思い出になると思っていた反面、あと一年少し耐えれる気がしていなかった。姉がサッカーをしていたので流れで始めただけの私。どちらかといえばサッカーよりもアトリエなどの方が自分らしさを感じていた。ただ家族ぐるみの関係もあり、みんながガチでやっていたこともあり、相当のことがなければ辞めたいなんて口に出せない環境であった。そこでこの塾を理由にしてやめれるのであれば、私の心に迷いはなかった。お先です、という感じで、涙を目にしっかり浮かべながら一足早く女子サッカーを卒団した。


そこから私のフツーとは少し離れていく人生が始まった。

正直中学受験が何かわかっていなかった私。とりあえず塾に入ったものの、小学校2、3年生から真面目にこうやって塾で受験に備えていた子達の中にいきなり放り込まれても、勉強の内容なんてまっさらわからなかった。学校では絶対教わることのないことが次から次へと問題として出てくる。そして膨大の量の毎日の宿題。宿題なんて学校のプリント1枚とかだった日々から一転して、一冊単位で宿題が出る。こんなの不可能だと思い2回目の授業の日に宿題できていないことを先生に言うと、怒られた。それが衝撃的だった。私はいわゆるいい子系で学校ではやってきていたので、先生に怒られるという経験がなかった。なのでその初めて怒られてからは意地でも宿題を忘れることはなかった私。いまだに相当過酷な空間だったなと思う。何せ生徒も先生も受験で合格することにガチ。受験が何かもわからずに入った身からは何が何だかわからなかったが、怒られないように授業を受けて宿題をする日々が始まった。そしてもう一人だけ同じ時期に入塾した子がいた。中学受験塾では入塾の時期に制限があり、私たちの入った小5の終わる頃が最後の入塾可能時期であった。もう一人一緒の時期に入った子は、なんだか私の好きなタイプのほんわかしているけどマイペースで不思議な子だった。この子が私の将来をどこまでも変えるなんてこの時は思っていなかったが。その子は宿題忘れる常習犯。先生から怒られる常習犯。私には理解ができなかった。なんて強い子なんだ。と惚れていた部分があった。私もあんな芯があってかっこよくなりたい、先生から怒られたくらいでクヨクヨしていた自分が馬鹿らしい。そんなこんなでその子とライバルでもあり仲間でもありながら切磋琢磨して受験までの死に物狂いの日々を過ごした。夏になれば今まではサッカーの大会の合宿だったのが、この小6の年は勉強合宿となった。寝る時間のおしゃべりも許されない、少しでも時間があるのなら勉強をしろ、というような合宿であった。山奥に集まる受験生の11歳の子達が私語厳禁で数日勉強だけをする。しかしそれも特に苦には感じないくらいに勉強が当たり前になっていたその時の私たち。そんな塾や合宿では毎日テストの結果によって席順が決まる。テストの成績が一見でわかるのだ。私は小学校が同じ仲良しの友達が同じ塾に2人いたのだが、一人はSクラスで一番上のクラスにいて隣の席に座れたことも同じクラスに入れたこともなかった。入った時はAクラスだった私だが、入ってから少しして、一緒の時期に入ったライバルと共にBクラスに進級した。Bクラスにもう一人の小学校が同じ仲良しの子がいたがその子は真面目で頭がよく、いつもクラスの前の方の成績がいい席に座っていて、遠い存在であった。授業中も騒がしくわちゃわちゃしているのは私たち後ろの方の人間。そんな日々も今思えば青春だったな。

そして2月になれば本番。気を引き締めて受験会場へ行く。私は四校くらいに願書を出したと思う。第一志望のラクロス部のある学校、家から自転車で行ける距離の周りの子も多く行く学校を第二志望に受験した。結果的に2月1日の時点で第一志望に合格し、その日の午後に受験した滑り止めが私の受験期の終止符となった。私の周りもみんなそれぞれに合格が決まり、それぞれに違う学校への進学が決まった。毎日必死に共に勉強していた仲間達と、もう塾で切磋琢磨できないと思うと少し切なかった。これからは勉強に縛られず遊べる!ということで、昔から大好きだった、1年間手にしていなかったDSをしてみたがイマイチ面白くなかった。


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