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「思い立ったがフロンターレ」からの、行き着いた先はまさかのサッカーメディアの編集長!

思い立ったがフロンターレ。

やらない後悔よりやった後悔。

意志あるところに道あり。

やたらポジティブで、フットワークが軽い。思い込んだら一直線――。
それだけを取り柄に人生を全速で走っていたら、たどり着いた場所がありました。これは、ある平凡なアラサーの人生が、あれよあれよという間に激変していったお話です。



1. はじめに

はじめまして、川崎フロンターレサポーター兼、旅とサッカーを紡ぐWebマガジン「OWL magazine」編集長の大澤あすかと申します。

趣味は旅行とサッカーと飲み歩き、座右の銘は「思い立ったが吉日」「やらない後悔よりやった後悔」「意志あるところに道あり」の3本立てです。サポーター歴は約4年で......


おっと、とても大切なことをさらっと言ってしまいました。
そうです。

実はこの度私「大澤あすか」は、OWL magazine新編集長に就任いたしました。

おそらく以前からOWL magazineを購読いただいていたり、認知いただいている方は特に驚かれたのではないでしょうか。
「お前は誰だ?」と。

実は少し前から徐々に、あなたの前に現れていたんですよ......ふふ。

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お分かりいただけたでしょうか。まあ、この時は自分が編集長になるなんて思ってもみなかったのですが。
事件はあの夜起こったのです。そう、ローソンで。


2. 晴天の霹靂。編集長になった日

5月の終わり。

良く晴れた日の夜。

すっかり慣れたテレワーク――。

そんないつもの光景の中、忙しい仕事の合間に夕飯を買おうと、近所のローソンに向かっている時でした。
OWL magazine代表の中村慎太郎氏より突然の着信。「まだ仕事中なので少しであれば.....。」と出る私に、5分で済むから相談ですと言われ対応することにしました。

「編集長をやりませんか?」

驚きつつも、とっさに「それ5分で済むの......?」と冷静なツッコミをする自分がいます。ただ時間のことを気にしている状況ではないと瞬時に判断し、具体的なお話を聞くことにしました。

実は中村さんの記事内でも言及されていましたが、前編集長の澤野氏が本業のお仕事の兼ね合いもあり、GWをもって編集長を辞められました。

その後中村さんも「ぼくは代表であり物書き。編集長までやったら死んじゃう」と、編集長になる気はないようで、その座が宙に浮いていたのです。

そんな中のオファーでしたが、編集長と言っても私は新卒で最初の会社に入ってからというもの営業一筋でもちろん編集経験は皆無です。

「私がですか?」

「編集長の話ですよね?」

とてもではないけれども事態が飲み込めずにいました。

ただきちんとお話を聞いたところ、どうやら岩本義弘さんの記事を読んだことがきっかけで、編集長はOWL magazineの「顔」であり、「最強の営業」であるべきだという考えになったとのこと。さらに「顔出しと営業ができる人材......身近にいるじゃないか!」と、オファーに至ったとのことでした。

引き続き混乱をしながらも中村さんの言わんとしていることは汲み取れたので、前向きに検討をさせてくださいとお伝えし、この日は終話しました。

ちなみに電話がきてからここまでの会話は、全てローソンで行われています。事件はローソンで起きているんだ。

そしてその晩ベッドに入りながら、色々と考えを巡らせます。

「他に適任者がいるのではないか……」

「とてもじゃないけど……。私では力不足なのでは……」

「まだOWL magazineで信用に足る働きをしていない……。そんな中で就任しても、誰もついてきてくれないのでは……」

「仕事と両立できるのか……」

散々考えましたが、なんだかんだ心は決まっていました。そう、座右の銘のひとつである「やらない後悔よりやった後悔」を発動させました。覚悟さえ決まれば、後は「どうやったらできるか?」を考えて走っていくだけです。翌日には「私で良ければ、ぜひ」と、中村さんにお返事をしました。

だって――。

OWL magazineって面白いんだもの。

そこにサッカーがあれば世界中どこにでも行ってしまう人たち。
そんな個性溢れるライター陣が紡ぐ、世界中どこを探しても見つからないオンリーワンの記事。
ディープなのにすんなり心に入ってくる内容が多くて、読み終わるとその土地に思いを馳せてしまう......。

そんな素敵なマガジンの編集長ですよ?なりたいに決まっています。
多少背伸びをしても役割をまっとうして、もっとたくさんの人に読んでもらえるようにしたい!
マガジンが持つキラキラを1人でも多くの人に届けたい!

こうして私は、編集長としての第一歩を踏み出しました。

......というご報告だったのですが、そうはいっても
「いやいや、結局お前は誰やねん」
と思われる方もいるのではないでしょうか。

せっかくの機会なので、私についてご説明をさせてください。
「なぜフロンターレサポーターになったのか」
「なぜサッカー旅に出るようになったのか」
「フロンターレサポーターになったらどんなことが起こったのか」

「OWL magazineとはどのように出会い、編集長となったのか」
という、これまでのストーリーを、お話しできればと思います。
少し長くなりますが、お聞きいただけると幸いです。

長いのはちょっと?まあまあ、お酒でも飲みながらどうぞ。何にします?おすすめは特製・ドライレモンサワーですよ!

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3. 信州で生まれ育つ

出身は松本市の隣にある、わさびが名産の安曇野市というところです。実家もわさび田のすぐ近くにあるようなとてものどかなところで、松本山雅のホームタウンでもあります。

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しかし私がいた頃は、松本は「プロサッカー」はもちろん、「プロスポーツ」のアイデンティティを持たない街でした。
野球は地域によって巨人と中日派に分かれる。Jリーグ開幕当初も、同じクラスの男の子がヴェルディとグランパスのキャップを交互に被ってくる、そんな状態でした。
全国の地方都市と同様に、「おらが町発のスポーツを応援する」という文化はありませんでした。

松本山雅は、創立が1965年なので当時もチームとしては存在していました。しかし地元で山雅の名前を聞くようになったのは、やはり松田直樹選手が彗星のごとく現れた2011年頃からです。そのため、私が上京した2006年当時には日常生活にサッカーは根付いていませんでしたし、私の中でのサッカーに対する位置づけも「部活の1つ」「テレビでやっているなぁ」という程度のものでした。


4. サッカーとの出会い。ーサッカーって面白い!ー

そんな私が上京をしたのは高校を卒業してすぐ、18歳の時でした。そこから紆余曲折あり就職をするまでに7年を費やしたいわゆる「高等遊民」なので、その間に膨大な時間をバイトに費やしました。

ラーメン屋、焼肉屋、居酒屋、バー、コールセンター、カラオケ、イベント、パチンコ屋......、などなど。本当に様々なバイトを経験したと思います。そのため、ただ単にお金を稼いだだけではなく、その中にたくさんの出会いがありました。それが今のお酒好きな私をつくり、サッカーとの出会いにも繋がっていきます。

私をサッカーの道に連れ込んだのは、新宿の居酒屋バイトで知り合った鹿島アントラーズサポーターの友達でした。

元々仲が良かったところに私の「誘われたらとりあえず行く」というフットワークの軽さで、鹿島アントラーズの試合に一緒に行ったことがきっかけとなりました。友達からすると、熱しやすく冷めにくい私の性格を見込んだ上で、仲のいい子をサポーターとして育てられたらという魂胆を持っていたようです。

私自身、それまで「なんとなく」サッカーを観に、スタジアムへと足を運んだことは何度かありました。しかし
「道中の旅要素」
「スタグル」
「グッズ購入」
など、試合内容以外に楽しむ要素がある観戦体験は初めてでした。車の中で聞いて予習をしたチャントに、盛大なお祭りのように軒を連ねるスタグル。そして目をキラキラさせてスタジアムに向かう、ユニフォームに身を包んだ人たち。

それまでも見ていたようで気付いていなかった、日常の中の非日常がその空間あり、否応なしに胸が高鳴りました。

そして試合中も布教活動を試みる友達による、選手の魅力からプレーの見どころまでを網羅した手厚い解説を受けた私は、「サッカーって、なんて面白いエンターテイメントなんだろう!」と、1日にしてその魅力に気付き、まんまとハマってしまったのです。

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5. 2016年 運命が動き出した、川崎フロンターレとの出会い

すっかりサッカー観戦が好きになった私は、友達と鹿島や近場のスタジアムでの観戦を重ねつつも、本来のオタク気質を発揮し、YouTubeなどでJリーグのプレー動画などを漁りはじめました。

そして「なんとなく」のポジションと、そのポジションが持つ役割くらいは理解できるようになった頃だったかと思います。最初は流れで鹿島の試合を中心に見ていたものの、ある時不意に気付いてしまったのです。

「もしかして、フロンターレのサッカーって面白いのでは?」

複数得点、複数失点は当たり前、殴り合い上等!
当時の派手な試合展開を繰り広げる様が「とにかくゴールシーンがいっぱい見られるから」素人目に見て分かりやすい見どころが多く、単純な私には魅力的に映ったのです。

フロンターレのサッカーを生で観てみたくなった私は、スタジアムの場所を調べました。すると最寄りは新丸子か武蔵小杉とあり、池袋にある私の家からは、副都心線に乗れば1本で着くことが分かりました。ここで座右の銘である「思い立ったが吉日」もとい「思い立ったがフロンターレ」を発動します。すぐに直近の試合のチケットを取り、単身等々力へと乗り込むことにしました。


2016年3月12日、J1リーグ第3節 名古屋グランパス戦。

3-2で川崎フロンターレが勝利しました。先制点をSBであるはずのエウシーニョが獲り、私がそれまで培ったつたないSBの概念が音を立てて崩れていきました。「SBってそんな所にいる人なんだっけ?」「ゴール決める人なんだっけ?」私は混乱し続けました。

他得点者は大久保嘉人選手、中村憲剛選手だったのですが、2人ともYouTubeで見るよりも上手いし、素人目に見ても色々な意図があるであろう動きをしているように感じます。何を意図しているのかは分からないけれども。

「なんだか将棋みたいで面白い!分かるようになったらもっと面白いんだろうな。」そんなSF(すこしふしぎ)な高揚感を抱えながら、等々力陸上競技場前にある、ドラえもんやパーマンの像を横目に帰路に就いたのが、フロンターレとの出会いでした。

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その後すっかりフロンターレの試合にハマってしまった私は、等々力での観戦を重ねるようになりました。その年の途中にはハーフシーズンチケットをゲットし、カップ戦もほぼ参戦するほどの熱心な活動ぶりです。いつの間にか、鹿島サポに育てたかった友達の意向に大いに反して、赤ではなくサックスブルーのユニフォームに袖を通していました。

そして2016年12月29日、もうひとつの転機が訪れます。

フロンターレが天皇杯の準決勝で勝利し、決勝に進むことが決まりました。それまでアウェイの試合にはほとんど行ったことがなかったのですが、決勝の舞台は大阪・吹田スタジアムだったのです。

その時私は、推しの谷口選手が決勝点を挙げたことでテンションが青天井になっていて、勢いで大阪行きを決意。新幹線、ホテル、チケット、全ての手配を体感30秒で済ませました。

上京してからも年越しは毎年実家で過ごしていたのですが、今回は大阪で年越しです。

「風間監督のラストゲームだから!」

全く伝わらない理由を母に告げ、大阪に発ちました。

母としても何のことか分からないながらも、私の性格を良く知っているだけに「はいよ、気を付けてね!」と、気前よく送り出してくれました。元々は細かいところもあった母ですが、私が成人を迎えてからは「一度きりの人生、好きに生きたらいい」とばかりに、何をしても動じなくなりました。
こうして、人生初の大阪の地に降り立つこととなります。

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6. サッカーはただのエンターテイメントじゃない!

2017年1月1日。

対戦相手は幾度となくフロンターレの優勝の前に立ちはだかってきた、鹿島アントラーズ。

そして決勝の結果は......。

残念ながら嬉し泣きをすることはできませんでした。

延長戦までもつれこんだものの、鹿島の底力を見せつけられる形で1-2の敗戦。その年のチャンピオンシップの悪夢再びとなり、1年足らずで「鹿島の壁」「シルバーコレクター」という言葉を痛感しました。

周りのフロンターレサポーター(以下フロサポ)さんたちも目に見えて小さくなっていましたが、そんな中でも選手を励ましたり、ねぎらったりする声が多く掛けられていることに驚きました。年末年始に大切なお金と時間を使って大阪まで来て、寒い中朝早くから待って――。そしてさんざん応援したのにも関わらず大事な試合を目の前で落とされたら、文句のひとつだって出そうなのに。

でもフロサポさんたちから出てくるのは
「ありがとう」
「お疲れ様」
「次頑張ろう」

という、暖かい言葉です。

私もその時にはかなりフロンターレが好きになっていましたが、そこまでの愛を持っているフロサポさんたちが不思議でした。だってこのチーム20年優勝したことないのに。「次頑張ろう」と言いながら、20年待たされているのに。

フロサポの生態が気になった私は、その愛の出所について調べました。すると、フロンターレがJリーグの中でも飛びぬけて、熱心なホームタウン活動やファンサービスなどを行っているチームであることが分かりました。
そしてその活動のルーツは、川崎という地域にありました。まず、フロンターレが誕生したとき、川崎は「プロスポーツの根付かない街」と言われていて、観客動員に苦労したことから始まります。そのため、フロンターレは、どの街のクラブよりも「地域のために」という信念を持って活動してきたのです。

その思いが次第に届き、川崎という地域とフロンターレは相思相愛の関係になりました。そのような歴史があるため、我が子の成長を見守るようにフロンターレを見つめているサポーターもたくさんいます。

サッカーは単なるエンターテイメントではない。もっと深い価値がある。

フロンターレの理念と活動に深く共感した私は、川崎市民であったことは1秒もないにも関わらず、川崎という地域とフロンターレに強い愛着を持つようになりました。
そして、アウェイ沼へと沈んでいきます――。

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7. 2017年 フロンターレ、初優勝

2017シーズンは、更に熱心なサポーター活動をしていくこととなります。
ホームはシーズンチケットを購入、カップ戦などのリーグ戦以外もフル参戦。アウェイも遠方を含めて、お財布と時間の許す限り行きました。

更に元々旅行や食べ歩きが好きだったことも相まって、「せっかく遠方にサッカーを見に行くのであれば目いっぱい楽しみたい!」と思うようになり、「旅とサッカー」が自分の中で融合しはじめます。

広島に行ったらついでに大久野島まで行ってうさぎとたわむれよう――。
夜はお好み焼き片手に広島レモンサワーかな――。

大阪に行くなら奈良まで足を伸ばして鹿とたわむれてこよう――。
夜は新世界で串揚げを食べつつ粕取り焼酎かな――。

など、この例だと動物とのたわむれ、そして飲食のことばかりですが、すっかり私なりのアウェイ沼にハマってしまいました。
また、アウェイでの観戦を重ねる中で、フロンターレのホームゲームはイベントがとても豊富で、ある意味Jリーグの中で異色の存在だということに気付きます。

私はものごとの「仕組み」や「裏側」が気になって仕方がないという性質を持ち合わせているため、「このイベントを仕掛けているのは誰なんだろう?きっと黒幕がいるはずだ」と疑問を感じました。

そして天野春果さん(当時プロモーション部 部長/現東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会)の存在を知り、「僕がバナナを売って算数ドリルをつくるワケ」という、禁断の書に出会ってしまいました。この本は、フロンターレのイベント等の取り組みが、どんな過程を経て世に出ているのかを赤裸々につづっており、スポーツビジネスの醍醐味を凝縮した仕立てになっています。

そしてこの本が、後々私の人生を動かす1つのピースになるのです。

ただその当時は「こんな仕掛けができる仕事って面白い!」と思いながらも、自分事ではありませんでした。

そんな中、本命であるフロンターレの成績は序盤こそ苦戦したものの、夏以降は順位を上げていきます。25節以降は、1位の鹿島の背中を追うように2位を死守。「勝てなかったら終わり」という試合が続く中、細い細い糸をたぐり寄せるように、優勝へと向かっていきます。

幾度となく心臓が潰れそうになるような試合も経験し
「フロサポでいると寿命が何年あっても足りない」
なんてぼやきながらも、私を含めたフロサポ一同の、「優勝」への期待が現実味を帯びていきました。

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2017年12月2日 J1リーグ第34節 大宮アルディージャ戦。

たぶんこの日のことは一生忘れられないと思いますし、その時の光景は今でも目に焼き付いています。

試合終了のホイッスル

ピッチに駆け寄るベンチメンバー

泣き崩れる中村憲剛選手

宙に舞う、青いテープ

初めて投げられる、優勝を祝うテープが青い空に舞う中、ぐしゃぐしゃになりながら知らない人たちと、だれかれ構わず「おめでとう」「良かったね」と、声を掛け合い抱き合うフロサポさんたち。

私自身も泣きじゃくりました。
泣くというより、もはや呻いていたといった方が正しいかもしれません。
こんなに泣いたのはいつ以来だろう?
大人になってもこんなに感情が動くことなんてあるんだ......。

隣にいた古参らしき女性に「長かったね…...」と抱きしめられて、一緒にわんわん泣きました。そして、改めて21年越しにこの光景にたどり着いた人もいるんだと、思い入りました。どれだけ待たされて、何度悲しみの涙を流したとしても、それほどに愛する価値が、サッカーにはあるんだと実感したのです。

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8. 2018年 スポーツビジネスを学ぶ

フロンターレがいかに多くの人に深く愛され、感動を与えているのかを身をもって知った私は、この素晴らしい体験をもっと多くの人に共有したいと思いました。
フロンターレの、更に言えばサッカーの伝道師になって、私がもらった感動への恩返しがしたいと。

どうすれば、今サッカーをあまり知らない人にその良さを伝えられるのだろうか。

色々と考える中で天野さんの本の存在を思い出し、「スポーツビジネス」というジャンルに改めて興味が湧きました。
スポーツは「見る」「する」「支える」という関わり方があると言われていますが、「見る」だけでなく「支える」という関わり方をしたいと、その時はっきりと感じたのです。

「スポーツビジネスを学びたい!」と意気込んだ結果、「マースキャンプ」というスポーツビジネスが学べる講座にたどり着きました。

ここでスポーツに関わるビジネスマンの方々の取り組みや熱い思いを本当にたくさん学ばせていただき、「サッカーを盛り上げる」という目的のために、自身が取るべき手段も絞り込めました。

具体的にどんな手段かというと、自身が良いと思ったもの、人、コトを輝かせるための、広報スキルを身につけること。そして必要に応じてそれらと世間を繋ぐためのコンテンツ制作のスキルを身につけることです。

そして、広報スキルを身につけるためには広報やPRの仕事に関わる必要があると判断するに至りました。コンテンツ制作スキルについては、前者の目途が立ってからもう一度考えようと、いったんは二兎を追わないことにしました。

一方、この年もサッカー観戦に執心し、もはやライフワークの主力となっていきます。
フロンターレも(それまでの歴史を思えば)まさかの2連覇。そして地元の松本山雅もJ2優勝という、最高な結果に終わります。

フロンターレの時はもちろんのこと、山雅のスタジアムである、アルウィンの空にカンピオーネが流れる様子をDAZNで見た時は、ぐっとくるものがありました。
画面の中に映る顔ぶれの中には見知った顔もいます。

地元を離れる時にはプロスポーツのアイデンティティがなかった松本に、山雅が根付いている。山雅を通じて地元が元気になって、心のよりどころにもなっている。

そう実感し、改めてスポーツの可能性や、自身が選ぼうとしている道の正しさに確信を持ったのです。

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9. 2019年 転職、OWL magazineとの出会い

「サッカーの布教」という命題に向けて、私はついに行動を起こします。まずは広報スキルを身につけるべく、広報やPRの仕事を探しました。

この年齢、かつ未経験での採用はハードルが高いであろうと感じていましたし、実際も予想通りではありました。しかしタイミング・フィーリング・ハプニング、そして私の長い営業経験で培ったハッタリスキルも相まって、PR業界の一角に身を置く今の会社に、奇跡的に採用されました。ここできちんと経験を積めば、広報スキルの獲得は可能です。

しかし、転職先が決まったことで検討のテーブルに上った「コンテンツを作る力をつける」こと。これについてはかなり悩みました。
誰に対して、どのように、何を届ければ良いのか?掲げる理想像と現実との間に、なんのマイルストーンも置くことができずに途方に暮れていました。

そんな時に転がり込んできたのが、OWL magazine代表である中村慎太郎氏との出会いです。

中村さんが松本で行ったイベントを地元の友人がRTしたことがきっかけで、OWL magazineの存在を知ることとなりました。

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そして「旅」「サッカー」「松本」という親和性の高い内容が並んでいたこともあり、「このマガジンに何かしら関われないだろうか?」と思い立ちました。そして中村さんに思い切ってDMを送ったのです。そう

「思い立ったがフロンターレ!」

返信が来ないことも覚悟はしていましたが、思いのほか早いお返事をいただき、やや拍子抜けしたことを覚えています。
そしてやり取りの中で、中村さんと私の上司が仕事上で関わりがあったことが判明し盛り上がりました。そしてその勢いで、OWLの忘年会にお誘いいただき、参加することとなりました。

ここでまたしてもフットワークの軽さを発揮したことがきっかけで、OWL magazineに関わりを持つこととなります。


10. 編集長、就任前夜

忘年会からほどなくして、中村さんより
「OWLでイベントをやりたいんだけど手伝ってくれないか」
という依頼をいただきます。

どうやら忘年会の時に初対面にも関わらず、私が相当のお酒、そして酒席好きだと見抜かれての依頼でした。
会場が家の近所であるバッカスということもあり、調整ごとが比較的得意な私は二つ返事で了承をしました。

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そしてその飲みっぷりや私の「コンテンツを作りたい!」という熱い気持ちを買っていただいたのか、中村さんよりOWL magazineに運営として関わって欲しいと依頼を受けます。

正直この頃から会社の仕事も忙しくなり、迷う部分もありましたが「コンテンツ制作」に関われることの魅力、そして「やらない後悔よりやった後悔」という座右の銘のひとつに後押しをされ
「ぜひ!」
と話を受けることにしました。

またその後世界がコロナ禍に直面し、OWL magazineとしても今後についての話を進める中のこと。

しばらく更新できていなかったYouTubeを動かそうと思うんだけど出てみない?ラジオ形式で顔写真を1枚出しておくか、顔出ししたくなければ適当なアイコンでもいいから」

というオファーを中村さんよりいただきました。
中村さんも一緒に出るから大丈夫だろうと思いつつ「トーク力のない素人が出るなら、顔出ししたほうがまだ面白いのでは?」と考えたためその旨を提案し、大澤史上初のYouTube出演に至ります。

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その中で、約30分で5杯のお酒を飲み干すというデビューをかまし、視聴者の方に「酒をよく飲む女」として認識をしていただくこととなりました。

そしてそれがきっかけでかは不明ですが、OWL magazineの看板ライターである五十嵐メイさんとの「女子サポYURUオンライン飲み会」が誕生します。

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その頃にはPR業界に身を置いていることから、中村さんと施策面についてのアイデア出しなどの話をするようになっていました。それからほどなくして
「OWL magazineの広報として今後動いて欲しい」
とオファーをいただき、「宴会部長」から「広報」へと、OWL magazine内の役割がランクアップします。

この頃には本業の忙しさに慣れてきたこともあり「案件4つやるのも5つやるのも一緒だ!」と、勢いで引き受けました。
「5月か6月頃に記事デビューをしつつ、広報として正式にお披露目をしよう」と話が進んでいきます。

しかし、時を同じくしてOWL magazine前編集長の澤野氏が辞任。この件をきっかけにまた私の運命は動きます。そしてその約3週間後に、冒頭のローソン事件が起きるわけです。


11. これから

そんなこんなで改めまして!新生OWL magazine編集長の大澤あすかです。

ここまででお話した通り、編集経験もなければ「長」の付く役職なんて中学校の学級委員長以来の「ないない」づくしの未熟な私なので、これからたくさん壁にもぶち当たるし、失敗して転ぶことも多い......むしろそればかりかと思います。
購読者の皆さまにも「あいつまた何かやってるよ」と思われるような、空回りする姿をお見せすることも多々あるかと思います。

ただ「サッカーってこんなに面白いんだ!」と、一人でも多くの方に思ってもらいたい。そして、サッカーを通じて感情を揺らして欲しい。その気持ちはたぎっています。

有り余るこの熱情を原動力に、これからOWL magazine編集部の仲間と支え合って、良いコンテンツを作っていきたいと思います。当面は支えてもらうばかりになりそうな気もしますが......。

あの日、鹿島サポーターの友達とサッカーを見に行っていなかったら。

フロンターレのプレー動画にたどり着いていなかったら。

フロンターレの試合に行ってみようと思わなかったら。

天野さんの本と出会わなかったら。

友達がOWL magazineのイベント情報をリツイートしていなかったら。

どれがなくても、今の自分はいません。

5年前の私に「サッカーがとんでもなく好きになって、それがきっかけで長く付き合った彼氏と別れて、転職して、ついにはサッカーWebマガジンの編集長になるよ」と言っても、きっと信じないでしょう。
その頃を思うと、とんでもない所まで来たなと感じます。まるでフロンターレの初優勝の時のように、細い糸をたぐってたぐって。

まだまだ未熟な編集長ですが、代表である中村を筆頭に、良いものをつくり続けることを誓います!
新生OWL magazineをどうぞよろしくお願いいたします!

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                          撮影:宇都宮徹壱

じつはここだけの話、既に面白い企画も複数動いているんですよ......。新生OWL magazineにふさわしいとびきりの企画です。
気になりました?気になったなら、せっかくなのでぜひ定期購読してね!後悔はさせません!!(営業)

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