ギブあんどギブあんどギブギブギブ、そしてギブ。
今年が終わる。
去年の年の瀬といえば、捻挫をしてインフルにかかり鬼滅をみながら過ごしていたらしい。
可哀想すぎるな?
んで今年は去年の年末悲惨な目にあったかわりに、そして世間も大変だった今年くらいは、穏やかに年を越せると思ったのに。
やってしまった。
朝方にぶるぶる震えながら起きる。発熱。またかよ。
クリスマスは洋食にすこし飽き飽きしていたから、和食をつくるはずだったのに。年末は年越しキャンプに行くはずだったのに。全部の予定がぱあになってしまったけれど、まあ来年もあるしね、と思えることが今年は色々あったから、幸せなのかもしれない。
去年の年の瀬に書いたnoteを見返すとこの1年での心境の変化に驚かされる。
与えられたい 与えられたい
だと。
来年の年の瀬、わたしは何をしているだろう。何をしていてもいいけれど誰かに何かを与えられているといい。辛いですと、すぐに言えるようになっているといい。
来年の年の瀬、わたしは高熱を出して部屋に転がっています。残念でした。あなたと一緒です。でも、めちゃくちゃ与え続けた一年だったし、つらいとか悲しいとか嬉しいとか恥ずかしいとか痛いとかかゆいとか、好きとか嫌いとか大好きだとかうるせえとか違うとかそうだとか、ごめんなさいを
言えるようになってるよ。えらいよ。
今年は本当にいろんなことがあったし、みんながどこか不安の上に危うげに立っていて、フェスも行けなかったし最悪な年だったんだけど、これまで生きてきた中で、今の自分が一番好きなんだよね。そして信じている。
そう思えるまでに30年かかったけど、自分のことをコントロールして世話できるようになったのは今後の人生においてかなり、でかい。
いつ暴走するか分からない自分という乗り物をおっかなびっくり操縦していることの危うさ。
しっかりコントロールできる今では、もう怖いものなしである。
与えて与えて与えまくって、そしてまた与える。見返りを求めずに与え続けていると必ず返ってくるし、返ってこなくてもそこには与えることができた、自分えらいじゃん、という自己肯定感がおまけとしてついてくる。
与え続ける人生を歩もうと思う
来年はどうなってるか分からないけどきっと私なら
おもしろおかしく過ごしているはず
もうすべてを悲観するのは終わりにして、来年も楽しく過ごせよ、私
来年またこれを見返して、この時の私は知らなかったのだーーー
などという文章から始まるnoteを書くのだけは回避できるように精一杯過ごそう。来年も今年より少しだけ、小さじ1の塩くらいほんのちょっとだけいい一年になりますように。なりますようにってか、するわ。うん。