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顔面コンプレックス

他者の顔や性格や思想についてとやかく言おうという意図はありません。

私の顔は可愛いけれど

顔の造形を表象する語彙を持ち合わせていないから上手く説明できる自信はないものの、顔は整っている方だと思って生きている。鏡を見て「顔がいいなぁ」と呟けるほどには。

友人に「内面の自己評価と外見の自己評価の乖離が大きい」と言われたこともある、この顔面の自己評価に対する自惚れは、顔面を100%、いや、150%くらい肯定してくれる存在によるところが大きいと思う。もっとも、就活に落ち続けたことに対する防衛機制から屈強なメンタルを手に入れた今、能力面はさておき、性格面の自己評価もそこまで低いわけではないのだけれど。

それでも、自分の顔が駄目になるときもある。「顔がいい」という評価軸が自分の中に存在していること自体が駄目になることもある。

大学2回生になるくらいまでの私は、自分の顔面に対してなんの評価もしていなかった。少なくとも現在のようにアイデンティティを揺るがすほどには、自分の中で顔面が占める割合は大きくなかった。

当時の私は、自己肯定感が低く、他者からの肯定をもてあまして悩んでみたり、自己肯定感が低いことを否定してみたりと、忙しかった。

今の私がある程度高いところで自分を肯定できているのは、依然として他者からの肯定である。依然として自己評価は苦手だから、他者からの評価を噛み砕いて自分の評価に作り替えている。

他者からの肯定には外見に関するものも多く含まれていて、自己評価における顔の重要性も高くなってしまったのだろう。

もっとも、自分の「顔の良さ」が他の人に評価され始めたのも、それと時を同じにしていたような気もするが。

ルックス完璧主義者

前から見たら左右対称。横から見たら鼻先と顎を結んだ線が唇につかない。私の理想の顔。

他にも、パーツごとに「正解」は存在している。

私は前歯が出てるから横顔が綺麗じゃない。横顔が好きで好きで仕方ないことの大半はこのコンプレックスからきている。

圧倒的に絶対的に顔がいい存在になりたいとき、正面から顔を見たらまあ許せるかなと思えるけれど、不意打ちで横顔の写真を思い出して、完璧になれるわけのない自分の横顔に絶望する。定規で顔を測っては数mm未満のズレに落胆する。100%理想的な顔面になんて出会えるわけもないのに。そういうテンションのときにトップアイドルの目の大きさが左右で少し違ったりするのを見るとどこか安心してしまう自分に嫌気がさす。

理想の顔面像が築かれてきたきっかけを考えてみた。まず左右対称。中学生の頃なんとなく観たアニメで「顔が左右対称だと魔力が強い」の旨のセリフが出てきたことがある。正確な文言は覚えていないけれど、偶然脳内にインプットされてしまったこのセリフはとても強く私に響いている。潜在的に顔面完璧主義者を作り上げるほどには。通常のテンションで見たら「可愛いねぇ」とオタク笑いをしてしまうようなトップアイドルの顔面を批判してしまえるメンタルを作り上げるほどには。

横顔はそれより少しあと、高校生か浪人のとき。乃木坂46を好きになって、どういう経緯かは忘れてしまったけれど、「メンバー名 横顔」でひたすら検索していた記憶がある。「きっかけ」という曲の若月佑美さんの横顔がとてもタイプだったことも。他の人の横顔を評価してしまうようになったのはきっとアイドルを好きになったのが理由。芸能人などの顔が世の中に晒されている人や、周りの友人の横顔を眺めて、綺麗な人に悔しさを抱く日々。スマホの中に作った横顔フォルダをスクロールスクロール。救われたい。

絶対的に顔がいい存在になりたい。
完璧な顔面になりたい。

醜形恐怖症のうた

tiktokで醜形恐怖症のうたが流行っていた。
移り変わりの早い世界なので、この記事が世の中に出る頃には懐かしの曲になっていそうだけれど。数ヶ月かけて向き合ったり目をそらしたりしながらこの記事を書いている。

鏡見て病んで心ギリギリの今
可愛いあの子は生き生き
つまり顔面失敗作の僕だから
一生報われないのです

https://vt.tiktok.com/ZSR5CGGKQ/

この曲が広義ルッキズム(外見で人を判断すること)を批判するものでなくてよかった。これで動画を撮っている人たちはみんな自分がルックスで評価されること自体を批判しているわけではないから。

この曲の人気投稿は顔が可愛い子が多くて、それは可愛い子の方が♡をもらいやすくてオススメに載りやすいからある意味当然のことだ。顔がある程度整っていると自認しているものの、顔面への承認欲求を満たしきれていない層が、この音源で承認欲求を満たそうとしているみたいだった。

顔がある程度整った子がこの歌を使うことへの批判も見た。顔面に劣等感を抱いている人からしたら、自分よりも整った、歌詞でいうとむしろイキイキした「可愛いあの子」が「顔面失敗作」と歌うことは嫌味とか自慢とかそういうものに見えてしまうことも理解できる。

この音源を利用した投稿の概要欄に「自分はすっぴんだと人の目が気になっちゃって外にも行けないから頑張ってメイクしている。そうやって作り上げた可愛さを『私の努力を見て』って承認欲求満たすためにSNS載せてる人も沢山いるんじゃないか。それなのにこの子は可愛いのにおかしい!のように批判するのは悲しい」と書いてあった。それなりに肯定的評価を受けやすい顔つき(に見える)女の子の投稿だった。

顔が良いとされる人にも悩みやコンプレックスがあるはずで。

「顔が良い」という評価を受ける人達は悩むことすら許されないものなのか、高い評価を受ける人達はその人なりの悩みがあるよねと受容されるべきものなのか考えている。

例えば世界大会には出られないけれど全国大会常連の能力はある人が「自分なんてまだまだで」と悔しさを見せていたら、世間はそれを肯定しそうなものである。その競技をやっている、県大会やあるいは地区予選すら勝ち抜けない人であっても、「あいつらは十分強いのにそんなことを言うなんて」と苛立ちを向けることは少ないだろう。

一方、例えばお金持ちのお家の子供が「クラスメイトのお友達は家に自家用ジェットがあってそれで送り迎えしてもらっているのに自分の家には高級車しかない」と叫ぶとする。きっと甘えるなと言われるだろう。

顔の良い人達の見せる劣等感はどちらに近いものなのだろう。上には上がいるからともがくことは許されるのだろうか。恵まれた人のわがままだと捉えられるのだろうか。

前述のとおり、私は自分の顔を肯定的に評価しつつも部分的に劣等感を抱いているから、顔について悩むことは全人に許されていてほしいけれど、これ自体が恵まれた側のエゴにも感じてしまう。

映画の感想のような、刃物のような

そもそも、顔が良いとか良くないとかそんな評価軸すらない世界だったらと妄想する。顔の整い方は特定の競技の能力や経済力のように一元的なものではないけれど、自分の中に存在している理想や正解がなかったと想像する。

このnoteを書き始めた2022年5月の頃は、自分の中にある顔面至上主義批判的な、顔を評価すること自体に対する嫌悪感があった。

月日の流れは残酷で、今日の私はどうしてもその理由が思い出せない。以前よりも自分の顔面に対する肯定感が向上していて、だからこそ自分の安定を脅かすような思想は潜在的に消してしまっているのかもしれない。あるいは逆に、顔しかいいところがないと思っていた5月に、そこにしか肯定を見いだせない自分を攻撃したかったのかもしれない。

いずれにせよ、近頃顔の良さで人間を肯定する癖がより強固になってしまっていることをしばしば感じており、顔を評価していることに対する嫌悪感は、少しばかりの後ろめたさに姿を変えてしまったのである。

代わりに、後ろめたさを感じつつも私が他の人に下す「顔が良い」という評価とはなんであるのか、考えてみたい。

先日、友人に「顔が良いという評価はどういう意図でしているのか、どういう意図で本人または第三者に伝えているのか」と聞かれた。二人以上の人間がいる場面で片方だけ肯定的評価をしたら、もう片方がどう考えるのか思わないのか、という意味も含まれていたように思う。片方だけを褒めることでもう片方を無言のうちに貶すことにもなるのではないかと。

私が人間に「顔が良い」と伝える時、その「顔が良い」は絶対評価であり、ただの感想である。同じ場にいた別の友人は「映画の感想のようなものではないか」と述べていた。あながち間違いではないような気がした。

ただそこに、良いものとして綺麗な顔があり、そこへの評価を下している。人間の見た目を肯定するとき、その顔を持つ人間の中身を考えることなく、頭の中にある感想を口から零しているようである。美味しい食事を食べて「美味しい」とつぶやくような気持ちであるだろうか。

そもそも、他の人への褒め言葉はすべて、絶対評価でなされたものを偶々そのタイミングで伝えているにすぎないのではあるが。他に人がいるから、他の人と比べてここが良いとかという評価をしているわけではないのだ。字がうまいとか、走るのが速いとかと同じで、その一方で「顔がいい」という評価は軸が一つでないから、主観的なものになりやすいから、他のものよりも人からの評価に感情が浮き沈みしやすいのかもしれない。

アイドルを見ているとよく思う。顔がいいという評価は、人によって様々である。自分の中にも、好きな顔の系統がいくつもあることを感じている。分かりやすく言葉で説明できるものと、なぜだか分からないがなんとなく目で追ってしまうものがある。

顔を評価するということ自体が、現在の世の中で批判されたり、少なくともあまり良くないものだとされていることも十分に理解しているつもりである。技能や努力ではなく、生まれ持った要素が大きいからなのかもしれない。

それでも、世界一の顔面になりたい。

おわりに

このnoteを書き始めてから、半年以上が経過した。その間に、自分の価値観はその間に緩やかに、でも確かに変わっていった。今まで書いたnoteで、一番悩んだものな気がする。言葉遊びでなくて、本当に悩んで書いたもので、あまり綺麗にならなかった。これからも考えていきたい。


連想ゲームのネタにしますね。