幸せって諦めないと手に入らないものなのだろうか。諦めるって大人になることなのだろうか。
諦めたくないとか、諦めている大人はつまらないとか思うけれど、振り返ってみると、自分もその諦めをどこかしら使いながら生きてきたわけで、結局自分のこともつまらないと言っているみたいになる。でも。それはきっと違う。最初の文章からして違う。諦めって仮決定のことだと思う。それがあると足場ができるから、ちょっと安心できる。それだけのことだと思う。それを幸せと呼ぶ人もいる。その足場を変えなければ、他人もその人が根本では変わっていないと安心できる。しかも変わらなければその上に積み上げた関係も変わらないでいられる。
いや、ちょっと違うかもしれない。諦めることは今の自分を認めることで、その上でどう生きていくかを考えるということなのかもしれない。うーむ。きっと両方正しい。諦めるは仮決定だけど、いろんな側面を持っている。それがいい時もあるし、頑固に諦めすぎて腹立たしい時もある。自分を守りすぎず、かといって進めなくなるほど壊しすぎず。
ここでわかることは、諦めにもいろんなタイミングがあり、人生において必要な選択肢だってこと。
考えることは諦めたくないけど、仮決定して進んで行った方が楽しいこともあるから、とりあえず進むのも必要だね。
人の白目が光るのをみるのがすき。
本当はここで終わりにすべきだけど、日記だから、もう少し。私は完璧主義だ。だから、調べ物が苦手である。どこまでもその情報の正当性を調べたくなってしまう。けれども、そんなに集中できないし、永遠に調べられてしまうから、途中放棄する。「適度」(諦めとも言える!)がわからないのである。世の中はたくさんの「適度」でできている。「適当」「適切」とかも似ている。この加減が苦手なところは私の特徴であり、病気にもできる性質だと思う。人間はそれぞれに適度を向ける対象に苦手なものを持っている。だから、悩むし、怖いんだろうな。
さらに私は、完璧主義を自分以外にも求めていたことが今日わかった。随分前からそれは知っていた。でも、今日わかった。私、なんでも器用に平均以上にこなせるような人間じゃなくてよかったな。もしそんな人間だったら、気づけなかったと思うから。完璧主義を自分以外のすべてに向けることがどんなにしんどいことかってことに。多分。
完璧さは大切だよ。お金のやり取りにおいてとか、頼まれたことを行うときとか。でも、完璧じゃないことは多くある。それでいいんだ。気をつけないのとは違うけど、完璧じゃないから生きている意味がないわけじゃない。
大きな物事を動かすことに誠実に向き合っている人はどんなに大変だろう。
とりとめもなくなってきたので、このへんで。ちょっと諦めます。また、明日。