私にとっての学歴、note

はい、今日は、とても不思議な気持ちです。理由は2つ。①最近初めましてをした人々 をどう自分の中で捉えたらいいのか、彼らにどう自分のことを捉えてもらいたいのかがわからなくなったため。②自分のnoteにもらえるスキが嬉しすぎて、スキを求めに行きそうな気持ちがあるけれど、そもそもなんでスキをもらって嬉しいの?なんのためにココに書いているの?スキをしてくれた人は何を思ったのだろう?という思考がぐるぐるしているため。

※文字ばっかりになりました。②が気になる方は下のほうへどうぞ。

①について。私は自分の世界の認識に、変えたい部分を持っている。私の認識には、いわゆる日本社会の「ふつう」な常識がはびこっている。学歴社会なんて嫌だとか、そんなので人間は計れないとか、面白い人はどこにだっていると思っているはずなのに、初めて入る集団の中で学歴によって態度を変えている自分を発見するのである。すごく悔しい。多分私は、自分が行った大学には、ある程度面白い人や頭のいい人がいると思っているし、考えがしっかりしていて、責任感もある、いい先生にも巡り会えたと思っている。そして、彼らを少し過剰に誇りに思い、その彼らの思想をかじり、ちょっと納得した自分を、世間一般とは異なると思っているのだと思う。しかも日本の人々の中で自分は、物事を批判的に見て、自分のバイアスを自覚し、根本から問題を問い直せる方の人間だと思っているのではないか。そして、その性質は、この社会にとって優位なもので、自分の中でもすごいものであり、自分より物事を批判的に見れない人に対しては強く出ることができて、自分より物事を多角的に見ることができて筋だった意見も言える人の前では自分は劣っていると思い、強く出れないのではないか。しかも、物事を多角的に見る能力は、学歴である程度判断できると思っているのではないか。さらに、多角的に見ることを皆に広めたいと思っているのではないか。

ここまで書いてわかったことは、多角的な視野が学歴に寄るというのはある程度言えることなのではないか、ということ。だって学べば学ぶほど自分が相対化されていくから自分自身の見方も広がるし、知識も増えれば今までと違う思考の仕方も知れる。つまり、視野は広がっていく。視野の拡大こそが学業の育てるものなのではないか。もちろん学業と言ってもいろいろある。技術を学ぶことも、技術を発展させることも、知識を深めたり、専門的な世界の見方を学ぶことも、学業である。視野の広がりを狙いにしていない学業もあるが、知識が増えれば世界の切り取り方も増えるという点で、どの学業も視野が広がる可能性がある。

就職しても学びはたくさんあるから、学歴を育てなくても、視野は広がっていくのではないかという意見が出てきそうだ。確かにそうだと思う。学校に行っても、就職しても、何をしても、視野は広がるだろう。しかし、私はここで、学びの中でも特に、教養を育てる学びがより視野を広げるものではないかと提言し、さらに深く考えるということの重要性に言及したい。教養は分野に捕らわれないため、技術や専門知識を得る学びよりも、より広範囲の社会についての知識を得られる。いろんな窓から世界を見ることが学べるともいえるだろう。また、考えを深めるということはそれ自体に多角的な視点が必要であるし、何よりも我慢強さが必要である。先の段落で、多角的な視野は学歴に寄ると言ったが、少し訂正したい。そもそも「学歴社会」という言葉には、学歴が長いほうが良い(大学に行き、就職すれば給与が上がる)というものに加え、偏差値の高い有名大学が優位という考えがついてまわる。偏差値は私にとって、深く考え、それを自分のものにできてますよ度数に見える。つまり、偏差値の高い大学に入る人は、少なくとも入試問題に関して、ある程度理解が深く、自分のものにしている人なのである。というのが偏差値に関する個人的認識、感覚である。また、我慢強さというものは(根性論ではない)様々な視点を考慮することを諦めないために必要なのだと思う。ここで、多角的な視点が何に寄るかという話に戻ると、それは教養を学ぶ時間が長いことであり、私の思う偏差値が高いこと(我慢強く深く考えられるということ)に寄ると思うのである。そのため、学歴社会的な風潮で多角的な視点の度合いはある程度学歴によって計れると言えなくはないのではないか。ある程度と言ったのは、決して多角的なものの見方は学歴に完全に依拠するわけではないからだ。自分で教養のように広い社会を学び続け、深く思考し続けられる人もいる。その人が学校に言っているとは限らないのである。

そして、一つここで言っておきたいことは、私自身が多角的な視野をとても重視しているし、それを持つことがとても好きだということである。視野の広さは、想像もしないアイデイアにつながるし、なによりも優しくなれると思うのだ。人間は知らないものを怖がる。日本の田舎における外国人への態度が典型である。でも、ある程度存在を知り、世の中に普通に存在するものだと思えれば、知らないものへの恐怖も、恐怖からくる排除も減少するのではないだろうか。そうやって、知ることで自分の世界を広げ、自分と異質なものの存在を認めることができたら、いろんな人が少し生きやすくなるのではないだろうか。だから、私は人の世界を少しでも広げ、その人の常識を考え直す機会に自分がなりたいし、自分の世界も広げてほしいと思っているのだ。あとは、単純に自分の世界が広がっていくこと、様々な見方によって様々に見える世界を見ること、色んな他人と共感できる部分が少しでも増えていくことが楽しくて仕様がないのだと思う。料理人が料理を好きなように、ミュージシャンが音楽なしでは生きていけないように、私は知らないことを知る喜びなしには生きていけないのである。たぶん。

つまり、私の他人への初見ジャッチが学歴社会的なものであるのは、自分の好きを求めるが故に叩き出した自己の中の理屈に寄るものであり、社会的構造から来る偏見と一概には言えないのではないか。いや、言葉にしてみたら違かった。社会的偏見と自分の理屈が相混ぜになっているから気持ち悪いのだ。つまり、私は最初から決めてかかるのではなく、ちゃんと人間として向き合っていく中で、学歴とはあくまで私の中の視野の広さ指針で、生き方に寄っては一概にいえないということを念頭に置き、皆にちょっとヒヨりながら、ここの世界は広げられそうという部分に突っかかっていけばいいのではないか!

②の自分のnoteにもらえたスキについて。嬉しい。これ、もらえると嬉しい!!!多分自分を肯定された、そこまでいかなくとも応援や、少しの共感がなされた、興味が向けられた、と思うから嬉しいのだ。そう、私は人に見ていてほしいんだ。自分が書いたこのnoteを。やっぱりそうだったか。日記とか言って、誰にも見られてなくても構いませんよって思っているフリして、フリしているだけだったのだ。スキされると、スキを増やしたくなる。少しでも見てくれている人がいることがわかると、毎回そのくらい見てもらいたいと思ってしまう。悪くないけど、それは私がnoteを書く趣旨のすべてじゃない。

私はこのnoteで、人と繋がりたかったのだ。私の考えているこのnoteを読んでいる時に、思ったことをなんでも投げてほしかったんだ。そして、その投げられたもので自分の世界を広げたかったんだ。あーだから書いてたのか、私。だからスキが来た時、反応が来て嬉しかったと同時に、なんでだろう?この人は何にスキをくれたんだろう?ってもやもや不思議な気持ちになったんだ。あー、なんか投稿の最後に毎回出るやつ書きに行こう。(書こうとしてみたら、無料のユーザーの機能にはなかったので、サポートについてのコメントのところに書いてきた。)

文字が多い投稿になってしまった。見る人のこと考えて書くつもりだったのに。

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます(いると願って)。良ければ、一行しか読んでいなくても、何を思ったか、コメントをくださいませ。

最後に、今日はこちらをどうぞ。イントロが夏になると聞きたくなる。これには、ないけど。


いいなと思ったら応援しよう!

Asuka Onodera
読んでくださった方へ、何を思って読んでいたのか、読んでくだすったのか、コメントくをだされば、家の前にやまびこをしに走るくらい、喜びます。