「意味」と大事
昨日は投稿をサボった。すごく幸せで、でも言葉にしすぎて、インプットしてきたものが、そろそろ全部吐き出されてしまう気がして書くのをやめた。そして今日の気づきは、全部吐き出されてしまいそうだけど、毎日感じることは何かしらあるのだということ。
でも、ここ3日くらいもやもやしている。自分のやりたいこと、目指したいもの、なれるかわからなくて怖い気持ち、本当になりたいのかわからない気持ち、もっと他に自分の目指したい先はあるんじゃないかって自問し続けている。きもちわるい。本を読もう。
生活に押し流されている。はやく進もうともがかなくては。
昨日と今日、相模原殺傷事件についての記事や、それに関するビデオクリップを紹介する友達の言葉を読んで、いろいろ思考を巡らせた。事件発生から26日でちょうど4年がたったそうだ。その記事やビデオクリップの中で引っかかったのは、「一人ひとりのいのちが大切」とか、「全く(生きている)意味のないっていう人がもしいたら、それでもいのちは大事だっていうのか?…言うんだっていわんといかん。」というような言葉である。
わかる!!!と全力で言っておきたい。この事件には時代が反映されていて、判決についても事件についても風化させるべきでないという意見や、いのちが大事という言葉に異論を唱える気はない。でも、引っかかるところがあるのである。
それは、いのちに意味があるかはわからないという、すべてのいのちに対する平等さと、社会の中で一人の人間として、「意味」のある存在であるかどうかが、引っかかった言葉の中で一緒くたにされているためである。
「一人ひとりのいのちが大切」という言葉は、そのいのちが社会的な「意味」が無くたって大事なの!!!という意味ではなく、「意味」や大事という言葉以前に「一人ひとりのいのちは在って然るべき」という意味だと私は思う。だってこの世に存在する意味なんて誰も知らないのだもの。でも、生まれてきてしまった。人間は生まれたら必ず死ぬけれども、死ぬまでには必ず、どれだけ短くとも生きるという過程を挟む。生まれて死ぬためには生きることが必要不可欠である。つまり、生まれてきた人には生きることが必須とされているのである。だから、いのちは在って然るべきなんじゃないか、と私は考える。社会関係の中で生まれる「意味」は関係ないし、生まれたいのちを大事にしなくてはいけないわけでもない。でも、在って然るべきという認識をするべきものなのではないだろうか。
しかし、すごくやっかいなのが社会関係の中で生まれる存在の「意味」である。いのちは在って然るべきだとわかっても、人間がもんもんとするのは、社会的に「意味」がなければ生きている意味がないと思ってしまうからだ。本当はそんなことないのに。生まれたんだから、生きるを挟んで死ぬまで行くだけなのに。このシンプルな考えでいくと、引っかかった言葉2つ目(「全く(生きている)意味のないっていう人がもしいたら、それでもいのちは大事だっていうのか?…言うんだっていわんといかん。」)はこう言い変えられる。
「生きていることに全く社会的「意味」のない人間がいると仮定してみるが、仮定したところで、それでもその人のいのちは生まれた時点で生きるを前提としているのだから、生きるに値する(在って当然)と言える。」
でも、こういうことじゃないんだよね。知っている。そもそもここで出てくる「意味」が気持ち悪い。それは社会関係の中で現れたもの、つまり、社会が決めるもの。そして今の社会は、生産性があること、効率主義、できることがいいこと、意味があるものとされる。そして、そうでないものは大抵意味がないものとされるか、意味あるものの前段階であり、今後変わっていくことを求められる。このような社会の中で「意味」のないor少ない人間という概念は生まれる。それぞれがそれぞれできることもできないこともあっていい、じゃあダメなのかしら?絶対的に良いもの、意味があるものが社会的に決まっているからこそ起こる葛藤が「全く(生きている)意味のないっていう人がもしいたら、それでもいのちは大事だっていうのか?…言うんだっていわんといかん。」という言葉に滲み出ている気がする。
なんで「いのちは大事」という言葉が在るのか、考えるべきだと思う。大事にされていないから在る言葉で、大事にしてよ!とか、私のいのちの存在を認めてよ!とか、そういう叫びなのかもしれない。
でも、「いのちは大事」と言われただけではピンとこない。むしろ、ふーんってなる。これはきっといのちの大事さを身をもって実感していない人間なのだろう、私が。でも、私みたいな人がたくさんいると思う。実感できないけれども、度々押し寄せる「意味」がなければ生きている意味がないのではないかという不安に押しつぶされそうになっている人が。実感を持っていないからこそ困ってしまう人がいると思うのだ。だから、「いのちは在って然るべき」といいたい。
効率的でなくとも生きる意味を見つけられる社会に、生産性とかけ離れているからこそ意味があることを皆が知っている未来に、できないだろうか。
希望を込めて。
※この意見を載せることが怖いです。あとから読んで違うなと思う時がきたら、全力で謝罪と新たなる見解を書き殴りたいと思います。でも、今の精一杯だといえるから、どんな方向転換があっても消さない方向でいきたいな。考えたけれども、今の自分に足らないものが多すぎて、検討外れなことを言っているかもしれない恐怖との戦いです。
しかも、なんだこの出発点と着地点が絶妙にズレている文章は。悔しい。でも書き初めに着地点への道筋が見えてないのだからしょうがない。