こども
自分は子供なんだ。もう少し正確に言うと、慣れで適当(良い意味でも悪い意味でも)になっていけるはずのところが、適当になれないまま(子供のまま)、私は大人になる年頃になってしまった、と言えるのではないだろうか。
私はテレビを適当に見流すことができない。話の内容にのめり込んでいくし、画面から目が離せなくなる。だから、友達の家に遊びに行った時テレビがついているのが嫌だ。その人とお話できなくなるから。何か文章を読むときも、その文章のすべてをできる限り理解しなければいけない気がして、適当なことは言えないぞ。と意気込み、結局なにも言えない。データを見ながらなんとなくこの傾向があるよねというのも苦手だ。適当に言えばなんでもいい局面でも、正しさを求めてしまう。そもそも適当にこうと言えるのであれば、その資料は適当に言った意見の逆の意見の論拠としても使えてしまうのではないかと思う。結局人の見方によって論拠が何にでも使えるのならば、論拠なんてあってないものではないか。これに論拠や例を出さなくてはいけないと今までの学校教育では教わってきてし、そのほうが説得力のある文章だろうことは私も賛同する。でもなかなかうまくいかないのだ。論拠といえど、日常生活でなんとなく感じていることを文字にしているのだから、急に具体例と言われても、詳しく思い出せない。思い出せたとしても、論拠への検討が止まない。つまり、この私の意見はどこかしら破綻があるのかもしれない。思ったときにその思いだけではなく、対象もメモして残しておかなくてはいけないことは重々わかってはいるのだ。
もう一つの今日の気付きは、貧困解決への私の起こせるアクションとして、「消費する」こと以外の選択肢があったらいいのにと思っていることに気がついた。例えば、世界の貧困をどうにかしたいと思い、ネットで調べてみると、1ヶ月何百円の寄付で一人の子供の1ヶ月分の食事が保証されます、とかが出てくる。私は寄付できない。でも、人の上に成り立つ生活をどうにかしたいと思う。他のできることをさがすしかないんだよな。
今自分ができることの少なさにびっくりする。そりゃそうだ自分の身すら自分で立てれてないのだから。どうやったら自分がちゃんと役に立てるか、自分が生きていて気持ちのいい人生を送れる能力を身に着けられるか考え、行動するのが、今の一番の優先課題だ。
わかってはいる。というのはどうしたらいいのだろう。
今日読んだ本。