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「北風とヒモ男と猫5」
彼女の名前はトモミ。
あれ?言ってなかったっけ?
君たち読者が「こいつの彼女、名前なんだっけ?」って思ってる気がしたから、一応言っておく。
僕の彼女の名前はトモミだ。
だから、これから出てくる女の子は、トモミじゃない。
「今夜、クラブ行かない?」
友人の誘いに、僕は適当に頷いた。
頭の中ではまだ、あの手紙の一文がこびりついていた。
「この前は泊めてくれてありがとうございました。」
「また、一緒に映画みたいです。」
彼女の字は、どこか丁寧で、どこか気取っていた。
それが、妙に腹立たしかった。
僕は誰かに触れたかった。
何かに溺れたかった。
だから、クラブへ行った。
扉を開けた瞬間、空気が変わった。
湿った熱気、煙草とアルコールの匂い。
低音が空間を震わせ、スピーカーの振動が皮膚に染み込んでくる。
「夢見てるジャンキーA」
耳を突き刺すようなモノフォニックシンセ。
ビリビリと振動する音が、意識を奪っていく。
ビートが加速し、徐々に熱を帯びる。
フロアの中央、彼女が踊っていた。
真っ赤なライトに照らされて、無表情のまま、ゆらゆらと身体を揺らしている。
僕が目を合わせると、彼女はニッと笑った。
キキだった。
彼女は僕の手を引いた。
僕たちはフロアへと進み、音に身体を溶かした。
「夜の帷へ もうひとつキメて キラキラな街へ」
低音が腹を揺らす。
音が分子レベルで僕をバラバラにし、組み替えていく。
世界が、音の粒子に飲み込まれる。
彼女は僕を見つめたまま、ゆっくりと指を這わせた。
爪先から、喉元まで、柔らかく、滑るように。
彼女の指先の温度が、そのまま僕の体温になった。
シンセのギュインギュインとした音が、鼓膜を圧迫する。
ビートがさらに加速する。
彼女は僕の耳元で囁いた。
「子犬みたいだね。」
僕は彼女の腰に手を回した。
触れた瞬間、何かが弾けた。
光が散る。
ビートが炸裂する。
意識が飛ぶ。
世界の輪郭が消え、音だけが残った。
「夢見てるジャンキーA 光の中で 思い切りキメて 夢の中へ」
僕は、彼女の体温の中に沈んでいく。
彼女の瞳の奥に、引きずり込まれていく。
この瞬間があれば、他は何もかもが消え失せてもいいと思った。
君のことも、まことさんのことも、
あの猫の冷たい目も、
駅の出口で見かけたカップルの笑顔も、
全部、全部、どうでもよかった。
彼女は、僕のすべてを乗っ取っていた。
彼女は、僕のドラッグだった。
「夢見てるジャンキーA 夢見てるジャンキーA 夢見てるジャンキーA」
シンセが叫ぶ。
ビートが脈打つ。
僕は、彼女の瞳の奥で踊る。
音が、僕たちを支配していた。
身体が勝手に動く。
言葉は必要ない。
僕たちは、音の一部になっていた。
どこまでも深く。
どこまでも甘く。
そして、僕は完全に溺れた。
クラブを出ると、湿った空気が肺に染み込んだ。
喧騒の名残が薄れていく。
世界が、また現実の輪郭を取り戻し始める。
キキと並んで、駅へ向かう。
彼女は煙草に火をつけ、白い息と煙を混ぜるように吐き出した。
「世界がどんなに汚くても、自分だけはそうならないようにしたい。
少なくとも、自分を偽らずに生きていたいよね。」
僕は何も言わず、空を見上げた。
朝焼けはまだ遠く、空は灰色のままだった。
彼女の言葉に、僕は確かに共鳴していた。
でも、それを口にするのは、なんとなく違う気がした。
駅に着くと、彼女は「またね」とだけ言って、電車に乗った。
ずいぶんそっけない別れだな、と僕は心の中で呟いた。
電車のドアが閉まる音が、静かに響く。
道端の自販機で缶コーヒーを買った。
開ける前に、缶の温もりを指先で感じる。
一口飲んで、苦さが喉を通る。
朝なのか夜なのか、どちらともつかない空。
通り過ぎるゴミ収集車の音。
その時だった。
道端で、猫と出会った。
あの猫だ。
いつもの場所にいて、いつもの目で僕を見つめている。
けれど、今日は違った。
猫は、僕をじっと見たあと、
ゆっくりと口を開いた。
「お前、大丈夫か?」
僕は足を止める。
猫は鼻をひくつかせ、少し顔をしかめるようにして言った。
「目がいってるぞ。くっさ、タバコと酒と女と絶望の匂い。」
僕は何も言わなかった。
しばらく猫と見つめ合ったあと、僕はポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
一口吸って、煙を吐き出す。
そして、猫を見て言った。
「こら、絶望は余分だぞ!野良猫さん。」
猫はじっと僕を見つめたまま、何も言わなかった。
北風が吹いた。
猫の毛がふわりと揺れる。
僕はただ、立ち尽くしていた。