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「また会いましょう」私の中の桐生ココの物語
ここに至るまでの一連の動きの中で、私がどういう感慨を持ったかという話はしません。
当記事で私が書くのは、
「私の中の桐生ココ会長はどんなかたちをしているか」
です。
桐生ココ会長ご本人の活躍をずうっと追いかけていくうちに、私の心の中に「個人的な桐生ココ像」みたいなものが生成されてきました。私たちはみんなそれぞれが、自分の中に「桐生ココのかたちをしたもの」を生み出しているはずです。
ここでは、「私の中の桐生ココ像」がどんな物語をつむいできたかを語ります。ですから原則的に、桐生ココ会長ご本人とは無関係ですし、フィクションです。私個人が勝手に書いてる小説だと思っていただけたらよいでしょう。
■続・自己肯定感
かなり前のことだけど、ホロライブメンバーの何人かが深夜に集まって酒を飲みながら、同僚たちが陰キャか陽キャか、オタクか非オタかというのを議論して、表にまとめる遊びををしていたことがある。
そのとき桐生ココ会長は、自分自身を陰キャだと主張していた。その当時の私は、それをきいて、
「あなたのような陰キャがおるか」
と思いました。
でも今にして思うと、会長のいってることはよくわかる。
このときココ会長が言ってる「陰キャ」の意味は、「自分には自己肯定感がなくて、自分の値打ちに自信が持てない」ということだと思う。そのように受け取る場合、私にはとてもしっくりくる。
ということで、ココ会長の自己肯定感の話の続き。以下に示す記事の続編です。
■他人にアプローチするということ
当記事における「自己肯定感」とは、
「自分に何ができるかとか、何ができないかなどとはまったく無関係に、自分自身にねうちがあると信じられる感覚」
くらいの意味です。
桐生ココ会長は、「自分の能力」には絶対に近い自信を持っているだろうけど、「自分という存在そのもの」には全然自信を持ってないと思う……という話をしたのが、前回の記事でした。
自己肯定感の低い人間の特徴のひとつは、「自分から人を誘いにいけない」ことだ(と私は個人的に思っている)。
他人を誘って何かするというのは、「私と過ごす時間には値打ちがある」という自認を、一定以上持っていないと成立しない行為だと思うのです。
「私に誘われたら、人は嬉しいはずだ。少なくともいやではないはずだ」。そういうふうに思っていないと、人間は「他人にアプローチする」という行為はできない。
もし「遊びましょう」と誘って、「あなたと過ごす時間に価値ないから嫌です」とか言われて断られたら、心が死んで立ち直れません。
だから、「自分と過ごす時間に価値があると自分で信じられない人間」は、他人に対して、つなぐ手を差し出すことが、難しい。
自分の能力には自信があるが、自分の存在そのものの価値にはいまいち自信がなかった(多分)桐生ココ会長は、だからこそ「あさココライブ」という方法を編み出したのだと思う。
あさココは、「ホロライブを俯瞰して、批評する」という企画だ。言い換えれば、「ホロライブを外から見る」視点だ。
なぜそういう企画になったのか。
人の輪の中に入っていくのが怖かったからだと私は思う。
「あなたって面白くてかわいくて魅力的ね。私もそうなのよ」という内面を持ってる人は、ひょいと輪の中に入っていって、「遊びましょう」と言うことができる。でもココ会長はそういう内面の持ち主じゃないから、そういうことをやろうとすると、ものすごい精神的コストを消費してしまう。
だから、魅力的なホロライブメンバーを、アウトレンジからつんつんと突っつくような遊び方になった。
この話、ちょっとわかりにくいかもしれないけれど、しいてたとえるなら、
「あの人のことを好きになったけれど、『私なんて全然ダメダメだから』、告白なんてとてもできない」
というふうに置き換えてみれば、これは誰しもちょっとは心当たりのある感覚だろう。
桐生ココ会長は、そういう感覚を多分ものすごく色濃く抱え込んでいる人(だと思う)なので、自分からアプローチするということがうまくできなかったのだろうと思う。
だけど、頭はむちゃくちゃに良いから、「自分から他人にアプローチすることなく面白いコンテンツを作れる方法」として、あさココっていうアイデアを思いついてしまう。
ココ会長って、じつはそういう人かなっていうように、私は受け取っています。
でも、それだったら、「自枠の中で、自分だけがゲームなり何なりやって孤立型のコンテンツを繰り出していく」というスタイルだって容易に取れたはずだ。そのほうがたぶん必要カロリーは低いだろう。どうしてそっちの方法に行かず、あさココみたいな負荷の強いアイデアの実現にふみきったのか。
そのほうがホロライブ全体に寄与できるからというのはもちろんある。
でも、本音はたぶん、彼女がさみしがりやだからだ。
本当は人の中にいたいという本心を抱えているからだ。
桐生ココ会長が参加して大きくハネた企画に、ARK配信やShitPostReviewがあるけれど、これらはどれも「桐生ココが用意した枠組みの中に、ホロライブメンバーの皆さんが入ってきてください」という構造になっている。
ココ会長の家にホロライブメンバーが泊まりに来るというシチュエーションは山のようにある。でも、ココ会長が誰かの家に泊まりに行くというケースはとてもとても少ない。
当記事に書いてあることは、全部私が頭の中で作り上げた想像なんだけれど……私が想像するに、たぶん、桐生ココ会長は、
「あなたと遊びたいので、私のテリトリーの中に入ってきてほしいです」
という本音を抱えていると思う。
だから、ARKの中で仲良くなって、自分が紹介した物件に引っ越してきてくれて、ちょっと呼んだら喜んで遊びにきてくれる潤羽るしあ先輩には、とろとろになるまで心を許してしまう。
■あなたはどうして、かなたのことをそんなに愛してしまったの?
そんなココ会長が、天音かなたのことを好きで好きでたまらない理由は明らかだ。
パパドラゴンの横暴に耐えかねて、「もうこの家出て行く!」ということになったとき、「かなたん、二人暮らししませんか?」と聞いてみた。
かなたの答えは言下に「ええで。どんなとこ住む?」。
おそるおそる、遠慮がちに差し出した自分の手が、なんのためらいもなく握り返されたからだ。
かなたんは、人生の一部をシェアしようという提案に対して、なんのためらいもなかった。それは桐生ココ会長にとっては、自分を全的に受け入れてもらえたようなものだっただろうと思う。
だからココ会長は、かなたんに、ほとんど全面的に心を預けてしまう。
ちょっと前まで、「自分のベッドに他人を寝かすとかありえない、妹が普段着のまま私のベッドで寝たからぶち切れた」くらいのことを言ってた神経質なココ会長は、シモンズベッドでかなたんと一緒にぐうぐう寝るようになる。
何人ものホロライブメンバーも、かなココハウスに遊びにくるようになる。みんなココ会長のベッドでごろごろする。ココ会長は、自分がこんなふうになるなんて思ってもみなかったんじゃないかと思う。メンバーに囲まれていて、お互いにこんなにも無防備になれる。自分は受け入れられている。
ところが。
■かなたんがいるからさびしい
ある日、かなたんがかなココハウスに見知らぬ女を連れ込んで、「これ、僕の彼女」って言い出す事件が起きる。
桐生ココ会長は「おめー! 何やってんだあ!」と一瞬本気でパニックを起こす。のちに「同居ーずにヒビが入ったかと思った」と発言しているから完全に真に受けた。
まあ、女の正体は、かなた部屋に泊まりに来た湊あくあで、罪のない冗談だった、ああよかった、という形で収まるのだが。
さびしがりで人見知りで、それゆえに天音かなたに全幅の信頼を置いていた桐生ココ会長にとっては、ひょっとしたら「冗談ではすまんぞ」という気持ちだったかもしれない。
たぶんその瞬間、ココ会長は本気で傷ついたかもしれない。
ドッキリを仕掛ける側が、往々にして見落としていることがある。種明かしをして、ああよかった、安心した、ということになっても、その一瞬に受けた心の傷が即座に治癒するわけではないことだ。
その日、かなココハウスには、湊あくあ、宝鐘マリン、星街すいせいが集まってきていた。機材トラブル等があった結果、彼女らは突発的に歌枠配信をすることになってしまう。
歌は桐生ココが最も苦手としている分野。
おまけにそのとき集まってきていたメンバーは歌唱力に定評がある者ばかり。
もちろん天音かなたたち4名は、「ココちも一緒に」と誘いはした。けれど、候補にあがっている曲目をココ会長はほとんど知らなかった。会長以外の4人は同時代の同質的なオタク文化にどっぷり浸かってきたからそれらの曲を基礎教養的に知っているのだが、USドラゴンアメリカ育ちのココ会長は文化を共有していないのだ。
結局ココ会長は、その歌枠に参加しなかった。ココ会長視点でそのとき何が起こっていたかといえば、自分の家の中に、自分は決して入っていくことができないクラスタが発生した。
ココ会長は、4人の歌枠が始まったのを確認すると、自分も自室にこもってライブ配信を始めた。配信すれば、いっぱいのファンたちが出迎えてくれる。彼女はそのとき、自分を全的に受け入れてもらえる空間を切実に必要としたのだと思う。歌い始めた最初の曲は、4人が裏番組で歌っているのと同じ曲だった。
これは、私には、「わたしは傷ついていて、さみしい」という表現に見える。
この事件と前後して、天音かなたが覚醒していく。おかころ、スバル、ちょこ先生、るしあといった、気難しめのホロライブメンバーの心を次々とつかんでいく。
相棒のそういう姿を見ていく中で、ココ会長の中に、こういう気分がふくらんでいった可能性があると思う。
「おめーの中で優先順位の一番はだれなんだよ」
ココ会長は、このあとしばらくして、こういうことを言い出すことになる。
「かなたん、ペアリング作ろうやー」
私の中の彼女は、本当に傷つきやすくて、さびしがりやだ。
■桐生ココはなぜ卒業するのか
このまま個人的な小説を続けます。
桐生ココはどうして卒業するのだろうか。
本人は多くを語らないが、断片的に彼女が語ったことをまとめるとこうなる。
「カバー株式会社と話し合いを続けた結果、『そういうことだと、この活動を続けることはできませんね』と決めるしかなかった」
ひらたくいえば、カバーが提示した条件を絶対に受け入れられなかったからだ、ということになりそうだ。
カバー株式会社は、桐生ココに何を言ったのか。ココ会長が「そんな条件では仕事はできない」と思ったこととは何だろうか。
私個人の心の中に生成された架空の桐生ココが、絶対に受け入れられない条件。せっかくできた友達を残してでも、去らなければならないほどの条件は、私が思いつく限りではたった一つしかない。それはこうです。
「新しいことをしないで下さい」
みんながやってるようなゲーム配信や、みんながやってるような歌枠や、そういうのをやっていって下さい。既存のVtuber活動のイメージの範囲内で活動して下さい。そうじゃないとフォローしきれません。
もし仮に、ココ会長がそんなことを言われたとしてみよう。ココ会長はどう考えるだろうか。
それは桐生ココ会長にとっては、「縮小再生産をして下さい」という意味だ。
クリエイティビティの高い人間にとって、最も承服しがたいものは、縮小再生産をしてくれという要請だ。
そしてそれは、桐生ココというキャラクターの価値を、根底から破壊するような要請だ。
なぜなら、既存のVtuberが使わないような言葉をつかい、既存のVtuberが思いつかないような企画を立てて実行し、「Vtuberとはだいたいこのへんの範囲内で活動するものだ」という思い込みをぶっこわし、つまるところイノベーターであることが桐生ココの価値だからだ。
なんで道のないとこ歩いちゃいけないんですか?
なんでこの山、登らないんですか?
どうしてこういうこと言っちゃいけないんですか?
何の意味があってみんなこれをやらないんですか?
そういうことをひとつひとつ立ち止まって疑問を持ち、それについて思考し、その「してはいけない」が単なる思い込みにすぎないことを行動によって証明する。それが桐生ココの価値であり、彼女が絶対の自信を持っている分野であり、そういう彼女だからこそ、巨大な人数のファンが絶大な信頼を寄せているのです。
そういう彼女でなくなり、縮小再生産をするようになれば、ファンは少しずつ失望し、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。
そんなことになってはいけない。それは、桐生ココについてきてくれる大勢のファンに対する最大の裏切りだ。そんなことになるくらいなら自分に引導を渡したほうがまし。
みなさんの心の中の桐生ココがどうなのかは知りません。でも私の中に生成された架空の桐生ココは、そう言って卒業していかれました。
「お別れをする必要は、あったの?」
「あったと思う」
■See you again, Weather hacker.
みんなが何となくこうでなきゃいけないと思い込んでいる条件や枠組みを、
「これ、意味なくないですか?」
「私、従いませんけど?」
そんなふうにルールを塗り替えてしまう痛快さが、桐生ココの本領だとしたら。
Weather Hacker という曲名は、それを意図したものではないとしても、とても桐生ココ会長にふさわしいなあと思う。
「天気」
という、誰もが変更できないと思っている条件があります。
人間には変更することができない。風が吹けば風。雨が降れば雨。だれもがその条件下で過ごさなければならない。
でも、桐生ココは竜です。
「なんでみんなで雨に濡れなきゃいけないんですか?」
そんなことを言って、「天気をハッキングして」晴れにしてくれそうだ。
彼女は変えられないと誰もが思い込んでる条件を変えてくれる竜なのだから、私たちは、雨がとぎれて日がさしたとき、そこに桐生ココを見ればいいのです。
Good morning,Weather hacker.お別れのつもりはありません。またいずれ会いましょう。