トランスヘイトの「もやもや」
市議までがトランスヘイトに陥りそうで頭を抱えています。ヘイターに何か吹き込まれてしまったのでしょうか。目を覚ましてほしいと思います。
ここまで私は、トランスヘイトに関わる様々な間違いをnoteで指摘してきたのですが、今現在残っているものは、「セクシュアリティを語る際の雑さ」であると感じます。
トランスヘイトの理屈には特徴があります。特にトランスジェンダー女性を「男性」とミスジェンダリングした上で、「公衆浴場やトイレに”男性の体”を持つ人が”侵入”してくるから、性被害の経験がある私は”怖い”、だから”入って来ないでほしい”」といったものです。
この理屈はまず、「男は常に加害的である」という雑さを含んでいます。まともな男性との出会いがなくてそう信じてしまったのかもしれませんが、フェミニズムに理解を示そうとしてくれている男性に失礼な話ではないでしょうか。私にはトランスヘイトする人たちが、最初から男性との対話を拒み、男性の人間性を否定して当たり散らしているように見えます。
さらにトランスヘイトの理屈には、「セクシュアリティは外性器で決定される」という雑さがあります。私たちは人間で、いつも外性器や生殖のことばかり考えているわけではありません。セクシュアリティは、私たちの生活や普段の思考そのものです。それらは私たちの体から湧いてくるものですが、体は時に嘘をついて、うつ状態や、逆に快楽に誘ったりします。ヘイトする人たちも、そんな瞬間がないはずがありません。あたかも性被害の経験を「こころを感じることができない」あるいは「ヘイトしても許される」といった免罪符にしないでほしいと思います。metoo運動はそういったものではなかったはずです。
性被害の経験を免罪符にしたヘイトの行動はまた、「フェミはうるさい、過激だ」といった言説を強化し、ミソジニーを強めることにもなるでしょう。私は、トランスヘイトはフェミニズムの首を絞める行為だと思います。
この記事が目に止まったなら、ヘイトを思いとどまってほしいと思います。