差別禁止について、今思うこと
今となっては少し気恥ずかしいですが、以下の過去記事にこめた思いは今も変わりません。
差別禁止法はやはり欲しい。差別禁止法がないと、行動指針が立たない人もいるし、教育もうまくいかない気がする。では、差別する「気持ち」を禁じることはできるのかといえば、できないし、差別に加担する「行動」を禁じても、かえって自由がなくなるような気がする。そういうわけで、すぐに答えが出そうにはなく、継続して考えていく必要があると思います。
煽られて差別に加担してしまった人を、差別禁止法違反だということで罰したとしても、扇動した人が罰せられなかったら、それも理不尽な気がします。かといって、「扇動したこと」を罪に問うため「扇動罪」を創設したとしたら、今度は「扇動罪」が社会運動の弾圧に使われる恐れもあり、これもいけません。
とりあえずは、上記過去記事中の、「二次加害カスケード」を、どうにか明らかにしたいです。差別扇動が起きているときどんなプロセスで被害が生まれるのか。加害者はどんな行動をとるのか。そろそろ、わかってもいい頃です。
Colaboの件もそうだし、過去のいろんなネット炎上を見ていても、扇動に加担してしまう人は、攻撃されている人が「悪いことをした」と信じ込む傾向があるように思います。「悪いやつだから、攻撃してもいい」と思うからこそ、扇動に応答してしまうのではないでしょうか。
炎上していることに関して興味があるなら、また、その興味から何か考えたいことがあるなら、考えるのは構わないと思うのですが、「あの人は悪い人だから攻撃してもいい」となりそうだったら、一歩立ち止まってほしいとは思います。立ち止まるのも、自分の気持ちに自覚を持つのも、難しいかもしれませんが。
ただ、差別禁止が情報リテラシーの問題に落ち着いてしまうと、また話がズレてしまいますね。他にもいろんな視点を学びたいと思います。