弔意を表さなくたっていい
安倍元首相の国葬ですが、どうやら強行されてしまうようです。先週はイギリスのエリザベス女王の国葬が行われ、「安倍元首相の国葬」と比較されたのですが、私はあえて、「サッチャー元首相の死」と「安倍元首相の死」を比較してみたいと思います。日本の元首相に対応するのはイギリスの元首相だし、サッチャー元首相の死とも比較する意味があるからです。
以下の記事では、2013年春にサッチャー元首相が死去した後、イギリスで彼女の死を「祝う」集会が行われたとあります。
我々からすれば、人が死んで喜ぶということはしないし、安倍元首相の死を喜んだ人も見かけることは困難です。安倍元首相に批判的だった人も、彼には数々の負の遺産にケリをつけてからこの世を去って欲しかったという意見がほとんどです。イギリス人の気持ちもわからないでもないけれど、我々はそういうことはしない。
元首相が死んだら喜ぶかどうかを比較したいというよりは、むしろ元首相への評価が分かれていたことに、私は注目しています。
サッチャー死去を受けて、ロシアのゴルバチョフ氏は、サッチャー氏との初の会談を思い出して、「次第に人間関係、友好関係が形成された結果、相互理解に達し、これが東西冷戦の環境変化と冷戦終結に貢献した」と評価しています。
一方、イランのメディアは、帝国主義的・自由主義的な経済政策「サッチャリズム」が世界的に貧富の格差を広げたと酷評しました。テレビの国際問題専門家の話として、「サッチャー氏の右翼的、虚無的な資本主義は北米や欧州などで世界的な時代思潮になった」「英国で貧富の差を拡大させ、健全な社会を破壊した」と述べられています。
安倍氏の死を受けて、アメリカのヒラリー・クリントン氏などは安倍氏に肯定的なコメントを述べていますが、安倍氏への国内の評価は分かれています。サッチャー氏に対してイランのメディアが酷評したように、「右翼的、虚無的な資本主義」「貧富の格差の拡大」「健全な社会の破壊」は安倍氏を批判しようと思ったときに出てきうるキーワードです。
他の人がすでに論じているように、このような評価の分かれる人物を「国葬」することは、安倍氏に弔意を示したくなくても示さないといけない場面が生じます。つまり、内心の自由が侵される危険がある。だから、反対派は「国葬に最後まで反対」と、民主主義の防衛線を守っているのです。
さて、国葬は強行されてしまいます。私は、安倍氏の死を喜ぶ意味はなくとも、静岡県で起きた水害に自衛隊を派遣せず国葬の警備ばかり一生懸命やっている政府の茶番に反抗するため、明日はちょっと派手めの服装で出勤しようかなと思っています。サッチャー氏が死去したときのイギリスの市民にも見習って。記事にある、「鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ」をちょっと聴いてみたりして。インターネットで異文化交流もできるから、現代社会は便利ですね。