日記【スシロー】


 スシローで晩飯を食った。
 特に意味もなくなにもかもどうにでもなれ!という気持ちになったので、もう予算とか何も考えないで寿司食いまくったるぞ!と意気込んで入店したが、一皿100円じゃないのを入店してから知り(初めてスシローに行った。普段は魚べい)、そこで完全に日和ってしまった。

 最近の俺の昼飯はセイコーマートの150円くらいのパン二つで固定されつつある。
 店内調理だから結構美味く(俺はコンビニの店内調理製品を過剰に信仰している)、そこそこ満足感がある。メンチカツと卵がコッペパンに挟まってる奴などは結構ボリュームがあり、良い。

 スシローは一番安い普通の寿司が一皿150円からだった。
 一皿150円ということは、二皿で俺の一日の昼飯分ということになる。
 そんなこと気にしていたら寿司なんか食えねえだろバカがとお思いだろう(誰かがこの文章に辿り着く可能性は限りなく0に近いと思いつつも存在しないこの記事を読む人間に向けて語りかける時、まるで手紙の入った便箋を海に向かって投げるような気取った孤独を感じる)、そう、俺はバカだから寿司を食えないのだ。

 二皿頼むごとに「これで一日分の昼食代かあ」と思い、一皿に一貫だけの寿司を頼んでは「これ一個と俺の昼飯の焼きそばパンが同じ値段かあ」と考え、積み重なった皿を二枚ずつ数えては「昼飯一日分、二日分、三日分……」と勘定する。

 あまりにも間抜けすぎる。
 ストレス発散のために回転寿司を食いに来たはずが、全く心が休まらない。
 じゃあ今現在の俺がたかだか一日回転寿司でハメを外したくらいで立ち行かなくなるほど困窮しているのかと言われると、別にそんなことはない。
 だが、根本的に金を使うことに罪悪感がある。

 これは「気にする」というアクティブスキルではなく、「気になる」というパッシブスキルなのだ。俺が生きている限り常時発動していて、常に俺の心を苛んでいる貧乏性という病気なのだ。 
 この「気になる」というのは厄介で、人生から彩りを奪うガンのようなものだ。

 「気にする」は健全だ。自らの意思と美意識によって自分を律する行いだからだ。
 「気になる」は不健康だ。気にしなくてもいい場面でも気にすべき事ではない事を気にして立ち行かなくなるし、「気にしない」という選択を取ることもできない。「気になる」を無視して「気にしない」事は極めて重大なストレス源になるからだ。

 まるっきり病気と言わざるを得ない。
 自閉症の子供がルーティーンを阻害される事に強くストレスを覚えるように、俺は生活に必要となる以外の金を使う事に強いストレスを覚える。
 病院に行ったら何か病名がつくかもしれない。
 「貧乏性」よりもマシな響きの病名だといいのだが。

 けど風俗に行くのにはあんまり罪悪感感じないんだよな……
 あるいは、風俗を「生活に必要となる出費」と捉えているのか?


 どっちにしたって病気だろう。
 一度病院に行くべきかもしれない。
 医者から「お前はアホだ」と太鼓判を押されるのが昼飯何日分の出費になるのか、とても想像はつかないが。
 

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