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第1章「星に触れる夜」第1話

「自己とは何か?」
現代のアイデンティティを探求する物語

ーAIと人間が共存する未来、
感情を巡る葛藤と希望ー


1-1話

未来都市ユートピア。

高層ビルが太陽の光を浴びて輝くその中心にあるのが、このアルカディアタワーだ。全ガラス張りの構造は、内部に位置するアルカディア研究所の象徴ともいえる。

ここでは、世界的に問題となっている「無気力症候群」の解明と克服に向けた研究が進められており、多くの人々が朝早くから忙しなく働いている。当然地上160階に位置するフロアに地上の悲鳴など聞こえてくるはずもなく、鏡ミラもまた普段と変わらないルーティンをこなしていた。

目の前には光の粒で形成されたホログラム映像が浮かび上がり、実験の報告書が幾つかの写真と共に映し出されている。視線を横にスライドさせれば、ページが捲られ下からグラフが立体的に飛び出した。

「またこの現象か」

ある地点を超えると急激に数値が悪くなっている。研究所には他とは比べ物にならないほどの膨大なデータが蓄積されているが、それでもここ半年改善の兆しが見えないということは、まだ足りない何かが存在するのかもしれない。一通り報告書に目を通すと、ミラは広げた映像を全て閉じて研究室を後にした。

廊下の窓からは昨日より少しはっきりと外の景色が見えた。といっても1年365日この街の空は灰色に澱んでいる。10年前、世界で初めて無気力症候群の患者が出てからというもの、空の色は失われていく一方で、今では空を青いなどという人は誰もいない。

無気力症候群は、感情の起伏を奪い、日常生活への意欲を失わせる病だ。ある日突然電源が切れたように動けなくなってしまうのだが、初めの頃は外見上の健康には変化がなく、むしろ心を静めるような穏やかな表情を見せることさえある。しかし、その実態は、徐々に心を侵食し、生きる喜びを失わせるものだった。患者の多くは自己否定の末に社会から隔離され、最悪の場合、自死に至る。

発症原因ははっきりしていないが、過剰な情報化社会、技術革新による人間関係の希薄化、そして多様化する社会の中でアイデンティティを確立することへの過剰なプレッシャーが背景にあると考えられている。

ほとんどの患者の血液検査で似たような変化がみられたため、当初はウイルスが疑われた。世界中の国々がワクチンの開発を急いだが、しかしワクチンの効果は期待したほどではなく、次第に原因は別のところにあると考えられ始めた。

それからというもの日に日に世界中で患者数が増大。それに伴い死者数も右肩上がりとなった。 

国は特別予算を組み、無気力症候群の専門研究機関である、アルカディア研究所を設立した。これにより人間の心、いわゆる“感情”の部分が何らかの関わりを持っていることが判明したのだ。しかしその頃にはすでに現代人の多くに感情の貧困化が進んでおり、このままでは感情の起伏が失われ、さらに多くの国民が無気力症候群になるのは時間の問題だった。

アルカディア研究所は、この「心の迷宮」から人々を救うべく、感情を操作し安定させる技術開発に着手した。足りない部分を補い、不安定な部分はデータの予測に従って正解を示すことでズレを無くす。彼らは「感情の再構築」を試みていた。

感情装置EVE-4.7

5年前、EVE-1.0を完成させたのは現アルカディア研究所の最高研究責任者(Chief Research Officer / CRO)である尊河レムだった。彼はいわゆる天才科学者で、研究の一切を任されていた。

試験運用を繰り返し、EVE-3.0として実用化されたのが3年前。重篤者を中心に使用を開始し、現在は一定の効果が発揮されている。発症者に対する死者数の割合は減少の傾向にあり、再発のリスクは抱えているものの日常の生活に戻れるとあって、人々の期待値は大きい。

そしてそんなプロジェクトの感情データ解析チームの主任として働いているのが、完璧主義を持つ若き研究者、鏡ミラだった。

ミラは、自分こそが人類を救う存在だと信じ、その責務に誇りを持っていた。彼の冷静で端正な姿勢は多くの者に尊敬されていたが、若くして出世したこともあり、同じ部署の人間からはあからさまに煙たがられている。

長身で整った顔立ち、癖のない美しい黒髪に、冷静な青い瞳。その姿は研究所内で「完璧な人間」と称されていて、半分嫌味であることは承知の上で、そのことには本人も満足していた。

「感情は数値化できる。そして数値化された感情は、操作もできる」

鏡ミラにとってこれは揺るぎない真実だった。主任を任されてからの2年間、彼は自らの信念をますます強めていた。それはかつて「弱さ」を突きつけられた自分への反発でもあった。そしてその信念こそが、人々を救うための道筋を照らす唯一の光だと信じて疑わなかった。

「鏡さん、おはようございます!」

研究所内のカフェでコーヒーを手にしたミラに、後輩研究員たちが声をかける。先輩には疎まれているミラも、後輩からは憧れの存在として人気があった。ミラは軽く会釈し、端正な表情で歩き去る。その背中には、どこか近寄りがたい威厳と安定感が漂っていた。

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