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あまねく呪われよと神は言った

期限ギリギリに本を読み終える。
夏休みの宿題と同じように「やらなくては」と思う何かがないと私は何もできない。(なお、夏休みの宿題はいつも踏み倒していた)

土曜日は寒さに震えながらアイスをバカみたいにたべ、本日日曜日は女家族で買い物に行った。今まで使っていたご飯茶碗がしっくりこないので新しいものを買いに行ったのだが、思わず箸とご飯茶碗そして味噌汁を入れるお椀を買った。

ご飯茶碗と箸が同じシリーズのものなのだがあまりにも可愛らしいデザインなので今度機会があり、尚且つ覚えていたら紹介したいと思う。

図書館で最近本を借りて読んでいる。本を読むのは面白い。脳内で一つの映画が上映されていくかのようにその世界に没入する。そこに描写される音が、匂いが、息遣いが映像となって再生される。そして時間を忘れて没入する。
たまに我にかえる、お茶を飲んで、また世界に没入する。それを繰り返すといつのまにか脳内で上映されていた映画は溶けるように消えているのである。

「ああ、楽しかった」と。


年末年始、親戚宅に遊びに行った。
親戚は祖母の妹宅で、母の従姉妹(祖母の妹の娘)と先日東京で遊んだ時に年末年始は一緒に過ごしたいと言われて二つ返事でOKした。

そして12月31日。いつもは2人しかいない祖母の妹宅に7人が集結した。
母の従姉妹夫婦は自由な人だ。
詳細な仕事や経歴については記述しないが、よく南アジアなどに旅行に行っている。

彼らには音楽から最新の流行、かたやいろいろな業界の話なんかを聞いたし、いろいろな体験をさせてもらった。

今日は母の従姉妹の旦那さんから教えてもらった本を読了したのでその感想をしたためようかと思う。


夜明けを待つ
著:佐々涼子

表紙があまりに美しい

生と死を見つめ続けてきたノンフィクション作家の原点がここに!

私たちは10年という長い年月を、とことん「死」に向き合って生きてきた。
しかし、その果てにつかみとったのは、「死」の実相ではない。
見えたのは、ただ「生きていくこと」の意味だ。
親は死してまで、子に大切なことを教えてくれる。
(第1章「『死』が教えてくれること」より)

家族、病、看取り、移民、宗教……。
小さき声に寄り添うことで、大きなものが見えてくる。
『エンジェルフライト』『紙つなげ!』『エンド・オブ・ライフ』『ボーダー』……。
読む者の心を揺さぶる数々のノンフィクションの原点は、
佐々涼子の人生そのものにあった。
ここ10年に書き溜めてきたエッセイとルポルタージュから厳選!
著者初の作品集。

集英社HPより

従姉妹の旦那さんは「これを読んで号泣した」と言っていた気がする。
私も鼻を啜るような場面が何点かあった。

エッセイとルポタージュから構成された作品の中の「会えない旅」という作品が特に私の心を震わせた。
佐々さんは自宅のある横浜から東北新幹線にのり塩釜へと向かう。無量という僧侶に会うために。

この無量は幼い子を亡くした経験を持つ。

とある雪の日に病院に呼び出された無量は自分のまだ生まれていない娘が「一八トリソミー」という病だと診断される。悲しみに打ちひしがれる彼とその妻は「もしかしたら」という希望を胸に娘の出産を待つ。
その後出産を終え、「あぐり」と名付けられた娘は懸命に育児されるが産まれてから100日後に命を落としてしまう。

なぜ「会えない旅」という話なのかはぜひこの本を読んで確認していただきたいと思う。

私は基本的に本を読んでそこから学びを得ることはほとんどなかった。物語を消費する化け物、消費して消化されずに排泄される悲しい物語たち。中には何度も意味もなく喰われてイタズラに昇華された悲しき物語もあるかもしれない。

このnoteを書くようになってから、そして改めてこの話を読んでから、物語をそして人の人生をイタズラに消化することへの罪悪感を感じる。私がすべきことは消化ではなく昇華だ。

改めて「会えない旅」を読んでの感想として。
人の死についての呪いの話。

人の死を体験したことは少ない。
周りでは何度か会ったが、基本的に当事者や最も近しい人の死というのは少なかった。

学生の時、顔も知らない学友が亡くなった。
理由は避けるが、あまり喜ばれたものではない亡くなり方をした。

その後、私たちを待っていたものは置き去りにされた悲しみと黒いモヤだった。
私の友人が学友と近しい立場にいたため、友人は数日カウンセリングを受けていたのを記憶している。

友人を含め若い彼女たちを待ち受けていたのは彼の死の悲しみだけではなかった。
「どうして彼が死んでしまったのか」「彼を取り巻く環境はどうだったのか」憶測が憶測を呼び、それは若い彼女たちを含め彼の家族がそれに傷つけられたに違いない。

その後、どうなったかは分からない。
私の友人はキラキラとした青春を過ごしていたし、その黒いモヤがあとを引くことは無かった。と思う。

「会えない旅」を読んだ時にこの記憶を思い出したのには理由がある。
無量が娘の葬式のときに親類から娘に対しての心無い言葉を言われてことがキッカケで彼は俗世から離れて危うい道に両足をつけてしまった。
なにかが壊れてだがが外れてしまってのだと思う。どうやら現在は平穏に暮らしているようだが、まだ彼の元に春は訪れない。心は氷で閉ざされたままだ。

人の死は覆されることのない終わりだ。映画でよくある後日談など存在せず、その人の言葉は永遠に語られることはない。そして語られる事はないからこそ、イタズラに誰かが真偽のわからない補足をつけてしまう。そしてそれが真実になり変わる。

捕捉された真実のようなものは、誰かの心を和らげるためのものかもしれない。もしかすると誰かの心をグチャグチャに踏み躙るかもしれない。

誰かが死ぬ事でその人とそれに付随する人たちの人生は一旦終わりを告げる。

私は、私が死んだらどうなるのだろうかと考えることがある。
そしてその問いに答えも正解もない。
私が死んだ後のことは知らないし、知ることはできない。でも両親は悲しむのだろうかとか友人や会社の人たちはどう思うのだろうかとか考えてしまう。
そして自分の死にどのような補足がされてしまうのだろうかと恐れている。

私は人の死は呪いのようなものだと思っている。
死ぬことは悪いことではないし、人は皆死ぬ。
でも私の死が、知らない人からの捕捉という呪詛を招き入れ、私の大切な人もそうでない人もあまねく呪われる。

そんなことを、この会えない旅を読んで改めて感じた。


ちょっと重い話で終わるのは嫌なので捕捉。
この補足は呪いではなく祈りだと思って欲しい。

命が終わることに対してどうしてもネガティヴイメージを持ってしまう私だったけれど、この本を読んでなんとなく死についての恐怖感が消えた。
別に死にたいと思っているわけではない。(むしろめっちゃ長生きして、ヨージヤマモトを着こなすかっこいいババアになるのが私の夢だ。近所に住む子供達から魔女ババアというあだ名をつけられるまで死なない)

何かについての恐怖を消すには「考えること」と「知ること」が手っ取り早い。でも考えること知ることは面倒くさい…勉強はあまり好きでなかった。

最近気づいたのは意外と考えること、知ることは面倒くさくない事。こうやってnoteにツラツラと頭の中の思ったことを吐露することは必然的に考えることにつながる。好きな本を読むことは知ることにつながる。

生も死も、意外と結論はシンプルなのかもしれない。そう思うと案外楽に生きられる。
この言葉は私から皆さんへの祈りであり、そして呪いである。

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