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どんな物語世界で生きるか

旅行づいていたここ最近、行くところがそれぞれ自分の趣味に合ったところだったこともあって、色々と考えることが多かった。
その一つに、物語についてがある。

神社に行ったら澄んだ空気を感じ、お寺に行ったら荘厳さに背筋が伸びる思いがするようなことはままあると思う。
それが、アメリカのセドナとか、シャスタとか、そういうところに行ったときにも、似たような静謐さを感じる場所があった。

ところが、だ。

美しい教会や、ストーンヘンジ、修道院やパルテノン神殿に行っても、何も感じなかった。

ストーンヘンジに関しては、どういうものかはっきりとわかっていないのだろうし、もしかしたら単純にカレンダーだったのかな、とも思うのだけれど、宗教的儀式が行われていた、現在も行われている場所に行っても、寺社仏閣に感じるような何かを感じることはなかった。

これは、私が日本で生まれ育ち、そういったものをよしとする物語世界の中にいたからではないかと思う。

例えば私がキリスト教文化の物語世界に生きていれば、教会に入るときに十字を切るのだろう。
例えば私が古代巨石文明の物語世界に生きていれば、ストーンヘンジで何かしたくなることがあるかもしれない。
例えば私が古代ギリシャ神話の物語世界に生きていれば、パルテノン神殿は特別なものに感じられたのだろう。

この場合の物語というのは、人が語るお約束、といったものでもある。
政治信条にしてもそうだ。
それぞれの持つ信条、お約束のどの物語世界の中で生きるのか、きっとそれがかちあわない場合は、合意形成も難しくなるのだと思う。

外国語を学ぶのは、言語を学ぶこと以上に思想を学ぶことでもある。
人は主に言葉を使って世界の見え方を他者と共有するからだ。

自分がどんな物語世界に生きていきたいのか、を選ぶことは自由さの表れだ。
同時に、自分がどういう人たちと、どういう世界で生きていきたいのかを選ぶことでもあるのだと思う。
多分これは複数あるといいんだろう。
一つの物語世界にどっぷり浸かってしまうことの危うさは想像に難くない。
かといって、多層すぎても良くないのか、それはまだよくわからない。

何者でもない世界を、どう切り取ってどう語り合うのか、選べるのなら、私は何を選ぶのか。
自分自身はいったいどういう物語世界に生きていきたいのか、これをしばらく考える時間を取りたいと思った。



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