参拝でのお願い事

お寺や神社は好きなほうなので、たまに気が向いたら程度で参拝することがあります。参拝というと大層ですが、ふらっと立ち寄るような感覚ですね。
参拝といえば特に神社ではお願い事をするのが常だと思うのですが、小さい頃の私は特に何も頭に浮かべることなく手を合わせて祈っているふりをするだけでした。お願いしたいことが何もないわけでもなかったはずなのですが。
しかし年齢が二桁になったくらいのこと、「いつも何もお願いしてないけどお賽銭をあげているのに何もお願いしないのはもったいないかな」と考えるようになり、よし今回は何かお願いをしよう!と決め、いざ拝殿へ向かったのでした。
拝殿前に立ったはいいものの、お願い事をするのに慣れていない私は「…何をお願いすればいいの?」と迷った末、ひとまず大雑把に「幸せになりますように」と願ってみました。
それ以来、中学高校くらいまではずっと「幸せになりますように」というぼんやりとしたお願いを毎回していたのです。特に心から願うでもなく機械的に。
高校を卒業した辺りからだったか、叶うかどうかも分からないお願いだけど、どうせお願いするんだったら自分だけじゃなくて皆が幸せになりますようににしてしまえばいいんじゃない?と考えるようになり、「世界中の人全員が幸せになりますように」という最大限にまで規模を広げたお願いをするようになりました。世界中の人の中に私も含まれてますしね。だからお願い事の内容自体は変わらないのです。
あれが欲しいとかこれが出来るようになりたいとかいう個人的な望みはもちろんあったのですが、それは自分で叶える望みであって神様にお願いするのは違うかなという気がしたんです。なので個人的なお願いをする気には全くなれずにそのまま年を重ねてゆき。
成人を迎え大人になった私は、…いや中身は大人になった気はしませんが、しかし年齢だけは大人になった私は神頼みをしたいくらい個人的な願いを持つようになりました。
でもそれまで「世界中の人が健康で幸せでいられますように」とか「世界中の人が仲良く笑って暮らせますように」とかそんなお願いばかり何年もしてきたせいでしょうか、個人的なお願いをすることはわがままなものに思えてしまったのです。別に皆がやっていることだというのに、どうにも後ろめたさを感じてしまいまして。
そしていつも通り「世界中の人が幸せになりますように」とお願いをしていました。
このようなお願い事ばかりをしていたと言うと綺麗事のようですが、そんなに心底からお願いしていたというわけではなく、どうせ叶わないんだから大きなこと言っといてやれくらいの軽い気持ちで適当にお願いしていただけなんですよね。
そんな適当な気持ちでしていたせいか、そのうち世界中の人が幸せにというお願いもいつしかしなくなってしまいました。
子供の頃そうだったように拝殿の前に立ち、清浄な空気に身を委ね、無心で手を合わせるだけ。

しかし今年の初詣で実に久しぶりにお願いをしてみたのです。私が応援している人が無事仕事に就けるようにというお願いを。自分のことだったら神様にお願いするなんてという抵抗があるけど、他人のことをお願いするんだったらあまり抵抗はなさそうでもありましたので。
だけど、いざ拝殿の前に立つと頭が真っ白になってしまいました。清浄な場所に立つとこういうことがよくありまして。お願い事が出来ない理由はこのせいもあるのではとも思っています。
でも今回のお願いは絶対しておきたいものでしたので、頭を必死に現実に戻してお願いをしてみました。
結果、噛みました。
口に出して言ったわけではなく心の中で喋ったものを噛みました。
どうやらまともにお願いも出来ないらしいです私は。
神社でお願いするなんて多分普通に出来るはずのことなんでしょうけど、私には少々困難なことのようでして。
こんなことではご利益は受けられそうにないかもと少々へこみましたが、一応お願いが出来たという達成感は得ましたので自分としては満足しています。
そして私が応援してる人はひとまず働き先は決まったようでした。
まあ私が祈ろうが祈るまいが仕事なんて自力で探して見つけるものですし、実際ご本人が頑張って見つけてこられたんですしね、今回のことは完全な自己満足だとは思います。
だけどこれに懲りずにまた個人的なお願いをしようかという意欲が少しは湧いてきた気がします。
神社のあの独特の空気に当たりに行くだけでもご利益ありそうなので、それで充分なのかもしれませんけどね。