一手間加えるエレガンス
シェアリングサービスが流行り始めている。カーシェアが市民権を得てから随分と経つけれど、ついに衣服のシェア(というよりはサブスクリプションという方が適切か?)という業態まで現れ始めている。果ては高級時計や就活スーツにまでシェアリングサービスの業態が広まっているという。
この裏側には、低成長経済において所得格差が広まっているという現実がある、ということを強調しておきたい。要は所有に伴うコストすら負担が重くなっている、ということだ。確かに必要なときに必要なものを使える方が安上がりだし、効率的であることは間違いない。その意味では、私たちと服やモノとの関係はインスタントなものになりつつある、といえるかもしれない。
私も購買行動が効率的になった、という点に関しては異論はない。しかし、思うことはある。私たちとモノとの関係がインスタントになりつつある一方で、モノ対するに愛着や馴染むという感覚がなくなっていくのではないだろうか、と。
シェアサービスが使えるのであれば、何も手間をかけてモノの手入れをする必要はない。必要になれば、新しいものをシェアすればすむだけの話だ。そうすれば常にキレイな新品のモノを扱える。手入れという行為はとても手間のかかるのものだから、そのコストを払うよりは新しいモノを随時シェアしてもらう方が効率的だ。
しかし、常に新しいモノに囲まれていては、馴染むという感覚が育つ余地がない。大事にき続けたジャケットが身体に馴染んで、自然なシワが入るだとか。最初は固かった革靴が馴染んで履いているという感覚がなくなったとか。そういう感覚はみんなでシェアをしたり、新しいモノだけに囲まれるようなインスタントな環境の中で育つことはない。そして大事にされた服が身体に馴染んだ状態こそが、本当の意味でエレガンスなのだと思うのだ。モノとの関係がインスタントなものになるにつれ、こういう本当のエレガンスはなくなり、ただただ新しいという意味だけのキレイなものだけが残されてしまう。そんな危惧をひそかに抱いている。
いわゆるヴィンテージといわれるものは、中古市場で流れることもあるが、そこには必ず手間をかける人の思いが秘められている。だからこそ古いものにヴィンテージというブランドがつくのだ。シェアサービスからヴィンテージが生まれることはない。ヴィンテージもエレガンスも、濃密な人とモノの関係の上に築かれていく概念なんだと僕は思っている。そういう概念もまた効率的である以上に重要なことなのではないだろうか。