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自己紹介、という名の与太話のような経歴。

 おはようございます、こんにちは、こんばんは!カワアイアスカです。

 このような挨拶は初めてしました。時間が限定されないツールが現れてからですね。わたしはいいと思います。

 さて、そういえばきちんと自己紹介をしたことがなかったなと、思い至ったので今更ながらしてみようかと。

 それから、今なんとなく色んなものが動き出しそうな感じがしていて、改めて現在地点を確認しておきたくなりました。


女優・モデル 明日香

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(撮影:保坂萌)

・1994年1月14日生まれ(2020年時点で26歳)

・出身地:岐阜県郡上市

・身長170cm、体重53kg、足のサイズ24.5cm(ブランドによって変動あり)

・最終学歴:日本大学芸術学部演劇学科卒業

・特技:水泳(12年)、郡上踊り、フルート(中学3年間)

・資格:普通運転免許、世界遺産検定2級、メンタル心理ヘルスカウンセラー

・趣味:散歩、読書、映画鑑賞、旅行、寝ること

・好きな映画:「母なる証明」「シング・ストリート 未来へのうた」「横道世之介」

・好きな本:「凍りのくじら」辻村深月著、「火星に住むつもりかい?」伊坂幸太郎著、「キッチン」よしもとばなな著


生い立ち

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(撮影:おそらくカワアイ家の大人の誰か)

 1994年1月14日の朝方、郡上市内の病院で生まれる。産声をなかなか上げず、助産師さんが逆さ吊りにして足をたたきまくったらようやく泣いた、らしい。両親共に公務員の割と堅めな家で育つ。4人兄弟の2番目で長女。

 平成の大合併でかろうじて「郡上市美並町」となったが実質「むら」の故郷で育つ。高校生時代までの遊びといえばもっぱら川遊び。夏は長良川で泳ぎ、夜は郡上踊り。冬は何もしない。

 小学生時代に唐突に「ここで一生過ごすなんて絶望だ!」と感じ、いつかここを出ていくことを誓う。ふるさとの自然や人々をわたしはとても愛していたのだけど、一生住んで「拠点」にするのは違う、と感じた。夕日を見ながらそんなことを思ったのでその時の夕焼けは強烈に覚えている。

 勉強はできないわけではなかったけど、特に好きなわけでもなく、当時は大学進学もするつもりがなかったため、一生懸命やった記憶がない。今になって勉強が楽しい。

 3歳くらいからスイミングスクールに通っていた。中学生まで12年ほど続けていた。今でも時々は泳ぐ。スポーツは水泳とミニバスを少しやったくらいで、運動は好きではなかった。

 割と堅実なタイプの家で育ったため、高校生まで外泊は禁止だった。また、携帯電話も高校卒業するまで原則は禁止で、兄はその通りに高校卒業してから初めて携帯を持つことができた。

 しかしわたしは、携帯を持っていなくても勝手に名古屋に遊びに行ってしまったり、アマチュアの劇団で活動を始めたり、行動を制限できなくなってしまったので高2の夏にはじめての携帯電話をもらうことができた。以降、妹と弟は高校入学と共に携帯を所持できたので、わたしには感謝しているという。


女優を目指したわけ

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(撮影:山田哲也)

 もともとはアニメが好きで声優になりたかった。高校を卒業したら名古屋か東京の声優養成所か専門学校に行こうと思っていたので、勉強にはあまり精を出さなかった。平均的な偏差値の高校で頭のいい部類の方にいれれば良かった。

 そんな風に高3の夏まで過ごしていたが、将来を心配した母がせめて大学は出たほうがいいと、のちに入学することになる日本大学芸術学部のオープンキャンパスに参加し、その日の帰りに大学進学を決意する。

 そこから受験勉強をしだして、合格して、入学して、新歓などがあって、実習で舞台を作ったりして、舞台に出演したりなどして、そんな環境でいるうちに夢は声優から広い意味での役者になった。

 未だに舞台俳優をやりたいのか映画俳優をやりたいのかと聞かれると困ってしまうのだけど、そういう意味では限定せずに仕事がしたいと思う。

 舞台はそれこそ生でお客様と時間と空間を共有することができるし、その臨場感は言うまでもない。失敗が許されない緊張感や目前で行われる展開に吸い込まれるのは、他では得難い体験だと思う。

 映画は何十年経っても、例えばわたしが死んでしまっても、世界的にとてつもなく大きな変革が起こらない限り残るもので、映画館でとかテレビの画面でとかスマホでという推移はあれど、極力作り手側が見て欲しい形でみてもらえる。どちらも素晴らしく、どちらが優れていると決めることはできない。

 わたしが入ったのは演劇学科だったため、経歴をみると圧倒的に舞台がおおいが、それは環境が理由であって意思ではない。


 学生時代は、楽しいことが多かった。お金のこともあまり考えず、好きな演劇に出ることができて、友達との時間も充実していて、そんな中卒業した。

 そして卒業後、なんとわたしは地元に帰ることにしたのである。


突然の帰郷

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(撮影:深澤裕)

 はじめに断っておくが、笑い話として聞いてほしい。

 大学4年の夏、わたしはその人と出会った。映画プロデューサーを名乗る男は渋谷の喫茶店でわたしの履歴書の隅から隅まで、挙句はわたし自身の隅から隅までを罵り、叩きのめした。

 第一線で活躍する名だたる俳優の名をあげつらね、人気の映画作品のパンフレットをだし、自分が関わったものだと見せてきた。

 そして、まだ情報公開前の映画の企画書なるものを見せてきた。それは伝説級の大ヒット漫画の実写化で、主演のキャストはこの女優にたのむつもりであると。もちろん超一流の女優さんで、脇を固めるのも人気俳優ばかりだった。


 そしてわたしに、その映画に役付きで出させてやると言った。

 その条件として100万円を超える金銭と、わたしに男女の関係を要求してきた。


 かなり怪しい話なのに、わたしはその前に散々罵詈雑言を浴びせられ、ひどくショックを受けていたため正常にものを考えることができなかった。もともと人を信じやすい性格もあって、わたしは分かりました、と言ってしまった。

 テレビで活躍するあの女優もどこどこの会社の社長の愛人だった、だからあのCMをずっとやってたんだ、俳優と結婚してから外されただろ?とか。

 それはわたしが色んな人から耳打ちされた芸能界の噂そのもので、やはりわたしが映画に出るためにはそういうことをしなくてはいけないんだ、と思った。

 大金持ちでもないからお金もなくて、だから愛人関係ならなんとかなるのかもしれない、と思った。その時好きな男の子がいたのだけど、きっとその時両思いだったのだけど、そういうものなんだ、諦めるしかないのだと思った。今考えたらありえないけれど。

 念のために言っておくと、わたしのその人と寝ていないし、キスとかもしてない。手も握っていない。

 その時ちょうどお盆の帰省のタイミングで逃げるように岐阜に帰ったけど、ヤツは名古屋まできて(仕事だと言って)、会いにこいと言われ、母と一緒に会いに行って、その時も同じような話をされてその日は帰った。

 その帰りに、あの男は怪しすぎるし、言っていることがおかしい、早くを縁を切れと母に言われた。

 その時になってようやく、どれほどバカげたことかが分かった。

 お金を出せというのも、今でいうクラウドファンディングのような仕組みの話だったが、いくら出せばいいのかと聞くと、それはこちら次第だといい、でも100万円ぽっちじゃお話にならないなと言っていた。そんなおかしな話があるか。

 ていうかなんでお金をだした上でお前の愛人なんかにならなきゃいけないんだよ。

 もうきっぱりこいつとは縁を切ると決めてメールを送ったところ、テレビ局の誰々さんや代理店や、結婚するという話も勝手に出ていたので母親にもわたしのメールを転送して見てもらったが、みんなありえないと言っているとか言ってきたので、「もうそっちの業界には戻りませんのでどう思われても結構です」と返して、本当に卒業後は地元に帰って就職しようと決めた。

 こんなにもおかしなことを言われているのに、奴が映画プロデューサーだと信じていたのは、奴の名刺に書かれた渋谷の住所には本当に芸能系のプロダクションが存在していて、アポ無しで訪れた時にそいつの名前を言っても怪訝な顔をされることなく「今日はいなくて」と言っていたからだった。

 聞いたことのないプロダクションだったけれど、訪れたそこにはキレイな女の子がたくさんいてレッスンをしていて、壁にもポスターかたくさん貼ってあって、ああ本当に芸能界の方なんだなと思った。

 今よりももっと世間知らずで、危機管理能力も低かった大学生の頃の話である。

 あとから奴の名前とプロデューサーで検索すると、詐欺師だということがわかった。

 

 待って待って、ここまで長くするつもりはなかったのにこんなに書いてしまった。書いているうちに怒りが湧き起こってきてだらだらと書いてしまいました。失礼。

 結局わたしはお金も取られていないし、体にも何もされていないし、無傷といえば無傷なのだけど、わたしを疲弊させ失望させるには充分な出来事で、役者活動をするのは大学までときっぱり決めて、あとは地元でゆっくり過ごすのだ。現実にお金を稼ぎ、適齢期に結婚して普通にお母さんになったりするのだ、そうやって生きていくのだ。そう決めた。

 就活を始めたのは遅かったが、なにせ人手不足の地元で、わたしの経歴は異色であるし、就職先はすんなりと決まった。

 わたしは道の駅と温泉施設やサービスエリアなどを経営、運営する地元企業に正社員として入社することが決まった。


そして再上京

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(撮影:Thom Yoshida)

 わたしの配属先は道の駅に併設された温泉のフロント業務だった。自宅から車で40分かけて毎日出勤していた。

 毎日フロントに立ち続けて、お客さんとお喋りしたり、商品の補充をしたり、レストランにヘルプで呼ばれたり。ごくごくたまに、温泉でのぼせて倒れてしまうお客様がいらっしゃるのでその対応を覚えたり。

 お客さんのほとんどがシルバー世代。観光客と地元住民の比率はシーズンによって変動はあれど、7:3で地元住民の方が多かった。

 仕事が終わったらそのまま温泉に入って帰る、それはそれで楽しい日々だった。中学時代の友達とも頻繁に会うことができて、プライベートも充実していた。

 映画をみるには、勤務先と間反対方向に30分車を走らせなければならなかったが、仕事を終え急いで帰ってご飯を食べ、その足でレイトショーのために車を走らせるのも、映画を見終わったあと一人車の中でコーラを飲みほすのも好きだった。

 子供の頃は知らなかったご飯屋さんを探すのも楽しかったし、自分の車で遠出をしたり山道を登っていくのも新しい発見だった。上京する前に見えていた景色とはこうも違うものかと思った。


 こうしてこのまま生きていくのだろうな、それだって充分幸せじゃないか。


 そんな時、たまにハッと気付かされることがあった。CMや映画に知っている顔を見たり、友達から宣伝のメールが来たり。わたしが帰郷したことを知らずに、出演依頼のメールが届いたこともあった。その度に「すみません、今岐阜にいて…」と断ることがひどく虚しかった。

 みんな頑張っているんだなあ、と朗らかな気持ちにはなれなかった。

 わたしはというと、前は女優だったのよと紹介されていた。若くて見た目も悪くなくて、そして元女優という経歴で職場ではチヤホヤされていた。

 このままここで歳をとっていくの?本当に?

 もちろん、地元でずっと暮らし、充実した生活をしている人がいることは知っているし、よくメディアでみるようなスローライフ的な田舎暮らしはわたし自身も好きだった。だけど、田舎ってそれだけじゃないし、むしろそれじゃないものの方が大きいし、そこで生きていくことはまた特殊な能力が必要なのだ。


 わたしは、新たな人生のスタートを切ったのではなく、すでに隠居生活を始めたつもりでいたのだ。そのうちに元女優という肩書も外れて、普通のおばさんになっていくことを望んでいた。


 23歳で!?アホか!!早すぎるわ!!!

 そのことによう〜〜〜やく気づき、わたしまた東京行こうと思う、ある程度お金貯まったらこの家出るわ、と告げた。

 本当はどういう気持ちだったのかは分からなかったけど、「そのうちそうなるのは分かってた」と言ってくれた。

 せめて100万円貯まったらとが思っていたのだけど、そうなるまでコツコツ貯めるには先が長すぎるし(ご存知かも知れないが地方の新卒初任給はなかなかに薄い)、23歳になった1月いっぱいで退職することを決めた。

 そして、再上京。

 それから今に至るまで、5本の舞台、3本の映画、4本のCMに出演した。ミス・アース埼玉大会で準グランプリを頂いたりもした。この時からモデルと名乗るようにもなった。

 信じられないくらいお金がなくて泣きながら親に電話したこともあったし、信じられないくらいの数のオーディションに落ちた。その度に頭がかち割れるくらい悔しい気持ちになって、自己否定の日々を過ごしたりもした。

 少しずつ少しずつ、運も重なって誰にも迷惑をかけずに生きていけるようになったのは割とつい最近の話で、今までわたしに関わってくださった人たち全員にありがとうと伝えたい。

 

これから

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(撮影:保坂萌)

 さて、わたしはこれからどうやって生きて行こうかしら。

 俳優を続けることはもちろんとして、俳優だけに限定して活動をしていきたいのか?

 なんとなく、これから物事が動きだしそうな気がしているのだ、わたしは。

 そして、わたしは今勉強が楽しかったりする。それは国語とか数学とか理科とかそういう感じではなく、教養と呼べるものであったり、新しい価値観をアップデートするためのものであったり。

 わたしの中にある既存の価値観がガラガラと音を立てて崩れていくのが楽しい。

 もしかしたら1年後は自分で映画を撮っているかもしれないし、5年後は留学しているかもしれない。これから先のわたしを限定することはできない。


 まだまだとか、これからとか、そういうことを考えている。


 だからありがとう、過去の全て、という感じだ。とても恥ずかしいが!

 本当にありがとう。そしてこれからもどうぞよろしく。




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