見出し画像

厄年続きアラサーの人生を振り返る③

前回は、大学受験までを振り返ってみました。
今回は、大学時代を振り返っていこうと思います。

この振り返りを始めて、今の自分とも向き合ういいきっかけになっています。


一番楽しかった学生生活スタート!

大学生ってよく聞くけど、一番楽しくないですか?
アルバイトもできて、自分の自由なお金があって、時間もあるし、体力もある。

ちなみに、私はイトーヨーカドー内にあるパン屋さんとイベントスタッフのアルバイトをしていました。


ドキドキのひとり暮らし!

高校までの18年間は、地元で両親と3LDKのマンションに暮らしていました。
私には、歳の離れた兄がいます。

実家には私の部屋という個室はなかった。
だから、初めてのひとり暮らしは初めてのマイルームを手に入れることと同じでした。

家具も家電も自分だけのもの!
家具とか選んだことがなかったので、初めはよくわからず…部屋を広く使いたくて折りたたみのソファーベッドにしました。
(のちに、クッションがヘタってパイプ部分が当たって痛くなりベッドを購入することに)


ドキドキの初登校。
私の学科はオリエンテーション合宿があり、軽井沢の研修所のようなところで1泊2日の合宿。

フィルムカメラを持っていくのが必須で撮影をしたり、夜はお風呂も終わった後で、全員で卒業生の卒制をひたすら観る。終わったのが夜中2時。

6畳くらいの部屋に4人で布団を敷いて寝た
その4人も同じコースの人ではなく、全然知らない人。

知らない人と同じ部屋で布団を敷いて寝たのは後にも先にも初体験!

その合宿で何が印象的かというと。
帰りのバスに乗り込むときに、乗せてもらえない人が数名。
話を聞くと夜に麻雀してたかららしい。
それを聞いた時に、大学生になったんやなぁって実感しました。


大学1年生

1年生は、基礎の基礎。
まだ私の時は、フィルムとデジタルの転換期。
どちらも学ばなければいけませんでした。

今は、フィルムカメラがまた注目されていますが、
私たちはフィルムをカメラに装填する練習から始まります。
光を当ててはいけないので、黒い布の袋の中で手探りで作業をします。

フィルムで撮影する時は、高価なものなので時間も計り、長回しもできないので緊張感が凄かったです💦

もちろん撮影だけでなく、現像やタイミング、編集もします。
酢酸のニオイがする現像室。
暗室で、撮影済みのロールを現像用のロールに入れ替える。
暗視ゴーグルをつけてもうっすらしか見えないので、なかなか付けられないし、うまく付けられないと現像中にトラブルが発生してしまいます。

普通の大学とは違って、実習が多いので授業が部活のようでした。


大学2年生

2年生も実習がメイン。
館山の合宿所で撮影実習があったり、夏休みも実習がありました。

夏休みの課題は、「ある男」というテーマでドキュメンタリーを撮影して、編集する。

私は、知人の梅農家の方を撮影させていただきました。
今から思うと、もっと身近な仕事をしている人を紹介したら良かったなと思っています。

例えば、季節は違うのですが・・・
クリスマスのデコレーションをしている人。

当たり前と思っていることの裏で働いている人がいるというのを伝えられたらよかったです。

大学2年のトピックは、転科試験を受けたこと。
入試の時にも書いたのですが、私は放送学科が第一志望でした。

私の他にもう一人同じ学科から放送学科への転科を希望している人がいました。
面接で試験官から「大学1年生で映画学科で学んだことと印象に残っていることを話してください」と言われたので、私は真面目に全てを話しました。

すると…試験官から一言。
「そんなにしっかり学んでいて、覚えているなら映画学科で頑張ってみたら?」と言われました。

そして、もうひとりの人は、転科試験に合格。
大学3年から放送学科へ転科していきました。

でも、試験管の先生が言うように
あのまま映画学科に残って良かったと思っています。
たくさんの経験と友達との思い出もできた。

大学生活が楽しかったのも、映画学科にいたからだと思っています。


大学3年生

大学3年の実習は、映画学科の各コースでチームを組んで、映画制作を行うもの。

監督コース・撮影録音コース・演技コースの3つのコースでチームを組みます。
監督コースの人が企画〜脚本を作成。
その企画と脚本を基に、撮影と録音コースが形にしていく。

私が組んだ監督の作品は、鬼が出てくる話でした。
真っ暗なスタジオで照明をスポットで落として不思議な世界を演出。

でも、監督とうまくいかなかった。
できることとできないことがあって、衝突することが多くてチームワークもバラバラ。

この時から人間関係に悩んでいたのかも?
なんとか提出できたけど、他のチームと比べたら全然劣っていた。

そして、この実習で私が感じたこと。
それは大学4年の卒業制作の時に確信に変わった。

他の人のチームのサポートをアシスタントする方が私らしくいられること。


大学4年生

4年になってすぐに、卒業制作の話が始まります。
一般の大学は、ゼミに入るのかな?

卒業制作は大体の人が3年の時に組んだチームで制作します。
でも、私は3年の時の実習の経験があって、組む監督を変えないとうまくできないのはわかっていた。
そして、私の積極性の無さと力不足もあって、組める監督もいなかった。

この時から、私はなんで映画制作をしたいんだろう?って思うようになりました。

私は、卒業制作をひとりで企画〜撮影・編集まで行うドキュメンタリー制作にしました。
そして、残りの時間はいろんな友達の現場を手伝うことにしたのです。

ドキュメンタリーは、東日本大震災が発生したこともあり、先日30年を迎えた「阪神淡路大震災〜はるかのひまわりプロジェクト〜」というテーマにしました。

私は地元が芦屋市で、中学は神戸の公立中学校。
「はるかのひまわり」を昔から知っていました。

「はるかのひまわり」とは、
阪神淡路大震災で亡くなった「はるかちゃん」が育てていたひまわりの種を全国で生育し咲かせていただく過程で、災害や命の尊さを再考する機会にして、自らの元気を取り戻す、自己再生や復興を象徴しています。

撮影は、東日本大震災で津波の被害にあった石巻市や気仙沼市にも足を運びました。
まだ、鉄道も復興しておらず、振替バスなどを乗り継いで、
ひまわりが咲いているところへ。

頑張ったのですが、どこかで自分がやりたいことがわからなくなっていたので出来もそこそこ。なんとか単位はもらえました。

自分の卒業制作よりも他のチームの撮影のアシスタントスタッフで行くのが楽しかった。
照明スタッフやカメラアシスタントとしても参加。
泊まりで行ったり、一晩中撮影するのも当たり前で、銭湯にお風呂に行ったり、どことなく家族みたいな一体感が生まれる感じが楽しかったのを覚えています。

卒業制作の撮影は、ほとんど夏に行うのですが、それが終わると制作をしながら、就職活動が始まります。
撮影専攻の私たちは、カメラマンか照明の道に進む人が多かった。
録音専攻の人は、スタジオに就職。

私は、カメラをしたいわけでも、照明をしたいわけでもなくなっていた。
何がやりたいのかわからない。だから、どこにエントリーしたらいいのかもわからず、手当たり次第、受けてみたけどどこもダメでした。

もう、就職先が決まらない。
そう思っていた時に、叔母の知り合いが福岡のテレビ局で働いていて、大阪のテレビ制作会社を紹介してくれて受けることになりました。

これって、一種のコネですよね。

手応えはなかったけど、選考は通過して内定をもらいました。
本当は、もう関西に戻るつもりはなかった。

私は、関西より東京が好きだった。
今も全体の雰囲気や人柄も関西より関東の方が私にはあっている。


卒業旅行は、韓国に行きました。
本当は、ヨーロッパ旅行もあったんだけど・・・

私は、高校生の時の飛行機での体調不良がトラウマで、長時間飛行をする自信がなかったので行かなかった。
今、思おうと言っておけば良かったな…

こういう機会もなければ、なかなかヨーロッパには行けないし、今みたいに円安でもなかったから行きやすかっただろうな。

私の大事にしている言葉のひとつに
「幸運の女神には前髪しかない」というのがあります。

チャンスは訪れた瞬間に掴まなければならないという意味のことわざ。

チャンスは一瞬。
通り過ぎてから追いかけても掴むことができないため、チャンスが来た時にしっかりと捉えないと逃してしまう。

こういうことってよくありますよね。
これからの人生も、チャンスは訪れた瞬間に掴むようにしたものです。



いいなと思ったら応援しよう!