『バスタブで暮らす』四季 大雅【感想】

やはり最初に目につくのはタイトルだろう。バスタブで暮らす? 何かのメタファーか? と。
本をめくればびっくり。ガチのマジで主人公である磯原めだかはバスタブで暮らしていた。
もっとも、最初からそういう習慣があったわけではない。彼女は少しだけ『ずれている』色はあったが、バスタブで暮らすほどのものではなかった。
しかし、彼女は就職というものに━━殺されてしまう。有体に言えば、パワハラだ。
そんな非情な社会に揉まれて、ついに彼女はバスタブに籠ることになった……ならざるを得なかった。

数日のバスタブ生活が、やがて数週に及び、気がつけば一ヶ月が過ぎる。そうして閉鎖的な場所でも、月日が流れれば変化は起きる。
バスタブ空間が、兄やらの手伝いもあってどんどん充実していくのだ。━━そして、良いPCが搬入されて、彼女はついぞ『Vtuber』になった。
何を言っているのかわからないと思うが、事実を淡々と述べるとこう説明するしかないのだ。
もっと言えば、ASMRの配信とかしてる。

ここで一つ言わなければならないことがあるが、私は四季 大雅さんの作品を読むのが始めてである。よって、この作品に限定されたものではないのかもしれないが━━この作品、『カルチャー』というものが驚くぐらいに強調されている。上記の『Vtuber』もその一つだ。
他にも、アニメ、ゲーム、小説、音楽、絵画などなど、すごい量の作品名が出てくる。比率としては、アニメ、小説、絵画もとい芸術が多かった印象だ。

しかしとりわけ強調されている物が二つあった。『Vtuber』と『能』だ。
私は両方とも詳しいわけではないが、なんとなく『自己を覆い隠し演じる』というステレオタイプぐらいはあるだろう。
その良し悪しは今回はどうでもよく、重要なのは二つがどこか根底で似通っているということだ。

故に、能の延長線上にVtuberは存在しているのではないか。そんな考えが浮かぶ。
古くからある文化の『能』が、現代に至ると『Vtuber』となった。前者は古く、後者は新しい。

作中で、それは明確に分けられていた。『能面』を被った、母、父、店長。『アバター』を被った、主人公。
前者は古く、後者は新しい。
なにも文化の話ではない。考え方とか、価値観とか、思想信条だとか、ひっくるめて古いものと、新しいもので対比させられている。

年功序列だとか、安定した職につけだとか、結婚をしろだとか、戸主制度とまではいかないけれど、上の年代の人は、やはりそういう考え方をする傾向にある。

だが、そういうものは彼女にとっては窮屈であり、苦痛なのだ。
しかし、母親から見れば、とっくに成人した娘がバスタブの中でVtuber活動をしていたら心配でたまらないだろう。
━━母親の死期が迫っているならなおさらのことだ。

だけど、主人公はバスタブから出られない。━━現実を直視できない。
無為に、無意味な、Vtuber活動を、母が認めないVtuber活動を続ける。

実際のところ、彼女は母の言葉が正しいと自覚していた。今のままじゃダメだ、このままじゃダメだと。 

古い言い方をすると、それは『甘え』と言えるのかもしれない。○○はあなたの何千倍も苦労しているんだから、あなたも……と、呆れまじりに叱咤されるものなのかもしれない。
Vtuberなんてやってたら、もっとだろう。

でもそれはただの嫉妬だ。だから、そんなのは彼女には響かない。
しかし、母親のは嫉妬ではなく心配だ。故に彼女は思い悩む。
そして、Vtuber活動と、母の死期と━━他にも隣人の恋慕や、兄や父の優しさなど、バスタブの中からじゃ終わらない問題に立ち向かう。
やがて『自分は、生まれてくることに失敗したのかもしれない』という問いかけにも答えが生まれる。

バスタブの中に閉じこもっていても、世界は進み続ける。世はなべて事もなしという有名な言葉がある。
だけどこれはどこまでいっても『自己』の話だ。バスタブから主人公が世界のことを考えることはあっても、世界が主人公に対してなにか働きかけるということはない。
狭く、小さい、そんな物語。だからこそ、堪らなく心に染みる。

面白かったです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?