70戦目 2009年4月17日
やるつもりはありませんでした。
事故に遭うまでは70戦目を目標にしていました。
15歳の頃は、100戦を目標にしていましたが、でも、
30歳を過ぎて所属ジムもない、そしてその頃の扱いの
僕には次ですら危うい毎回でした。
その前に元気であっても30数回減量するだなんて
考えたくもありません。
なので、あわよくばあと2回、70戦目を目標にしていましたが、
でも、69戦目の前に試合はなくなりました。
そこからの6年半はやるはずだった69戦目を行うことを
目標というよりも夢にしてきました。
やるはずだった69戦目を無事終えて、でも、やめることも
続けることも考えていませんでした。
試合を無事終えて、でも、試合後に通路で長江会長が腕を掴んで、
「お前、いくらもらったんだよ。」
周りに客がいるのにも関わらずその様なことを訊くのです。
とても恥ずかしい気持ちになりました。
「なら、これだけやるからうちの興行出ろよ。」
指を幾つか立てて云いました。
上手に誤魔化してその場を離れました。
だからキックボクシングは駄目なのです。
サッカーや野球はお客さんの聞き耳を立てられる様な
客席などでその様な会話はしないでしょう。
「それっぽっちで試合しているんだ?」
逆もまたしかりながらも、でも、やはりその程度だとは
思われたくはありません。
そして、上から「お前」とか呼ばれて、面識もないのに
命令口調だとかでやりたくなどないのです。
再起する数年前、交通事故に遭いリハビリ生活の間、
病室で一冊の雑誌を手に取りました。
ブランクの6年半、雑誌を手に取りませんでした。
勝手に嫉妬して不快な気持ちになることが嫌だったのです。
でも、その時は何故か手に取って見ようという気持ちに
なったのです。
それ一度きりです。
ある選手のインタビューに目が止まり、読んでいたら自分の
名前が出ていました。
もう、やめたも同然の過去の自分の名をその選手は出してくれて、
嬉しくなりました。
誰だったか名前は覚えていませんが。
「深津」
2008年末、新日本キックボクシング協会の伊原ジムを訪ねます。
2009年4月に試合をやらないかといいます。
相手は深津という選手だといいます。
「深津なんていう選手ですか?」
僕は返します。
「ひなりだよ、ひなり」
向こうは知っていて当たり前という顔をしています。
「深津って選手じゃないんですか?」
違う苗字を再び耳にして、再び僕は返します。
「うちの、前のフライ・バンタムのチャンピオン」
分からないでいると、即座に強い口調で補足をします。
知っていて当たり前の顔をされても長いこと離れていた僕にはそれが
誰なのかすら分かりません。
「とびなり(飛成)って書いて深津ひなり」
名前だけ覚えてその日は帰宅します。
忘年会の時、4月に試合が決まったことをジム生に告げます。
でも、思ったより食いつきは悪いものでした。
僕自身の試合にはもう、あまり関心はないのかもしれません。
だから、自分のことをみんなの前で報告する際は遠慮しがちになります。
その日も若干恥ずかし気に報告をしました。
「相手は誰ですか?」
試合をするということよりも、誰と試合をするのかということの
関心の方が先に気になるみたいでした。
「深津、」
下の名前が思い出せないでいると、
「深津飛成ですか?」
何人かが口を揃えます。
「よく知ってるね」
僕は素直に感心しました。
どんな顔をしてどんな選手なのかは知りません。
パンチが強いといいます。
前年9月の試合後から練習は毎日続けています。
1月に入ってもいい練習は出来ていました。
でも、1つ大切な計算外のことがあります。
アルンサックの一時帰国が決まっていたのです。
1月末、アルンサックが帰国して僕のミットはなくなりました。
それだけではありません。
アルンサックがいないということは僕がトレーナーになるのです。
全員のミットを僕が毎日持つことになります。
2月には藤倉悠作の試合が決まっています。
試合が近づくにつれて自分の練習どころではなくなっていきます。
悠作のマスやスパーの相手になることで少し補えたくらいでした。
毎日の疲労とストレスで背中に異常なほどの量の吹き出物が
出来ます。
3月末、1ヶ月を切ってようやくアルンサックが戻ってきました。
噛み合わなかった時のことを考えると少し怖いものでした。
だから、噛み合わなかったら試合まで実戦中心のメニューに
切り替えるつもりでいました。
でも、その心配は杞憂に終わります。
約2ヶ月なかった割に、練習は噛み合いました。
スパーリングパートナーと練習相手の悠作も自分の試合約2週間後の
5月3日にJ-NETで試合が決まっていました。
だから、短時間になってしまったけれどいい練習が出来ると
高を括っていました。
3月末、普段休まない悠作が練習を休み始めます。
具合が悪いといいます。
1週間経っても来ません。
話し合って試合をキャンセルしました。
数日後、救急車で運ばれます。
新型インフルエンザだといいます。
マスやスパーの練習はなくなり、ミットのみになります。
試合10日前、無理して悠作は戻ってきて練習相手に
なってくれました。
1週間程度ではありましたが、充実した練習内容、練習量でした。
減量も上手くいきました。
急に寒くなったり雨が続いたりもしたけれど、それは計算して
落としました。
ジムワーク最終日、ロードワークから戻ると見学者が椅子に座っています。
試合前の練習をあわよくば見学しようとするこれまでを
思い出して心でため息をつくこと、幾度もあります。
視線を上げずに準備に取り掛かろうとするとアルンサックが
僕を呼んで顎で来客を見るよう促します。
中島(貴志)くんでした。
彼には今回、セコンドをお願いしていました。
一言では説明できない色色な思いが漂って、だけど、
僕は自分の練習をして彼は黙ってそれを見ていました。
彼は今の僕の練習を見て何を思ったのだろう、帰宅してから
そんなことを考えていました。
15日、リミットを100gオーバー程度だったので
野菜と果物を多めに食べます。
計量前日、前回同様、リミットを下回って多めに食事を摂りました。
時が遡ったかのようでした。
翌朝計量日、外に出ると雪が降っています。
体重を計ると200g下回っていたので水分を摂りました。
計量後に飲むカフェオレを作ってステンレス製のボトルに入れます。
テレビを消して、9時に部屋を出ました。
4月半ば、桜が咲いた後だとは思えない寒さの朝でした。
30分ほど揺られて水道橋に着きます。
改札を抜けて橋を渡って後楽園ホールに入ります。
エレベーターに乗って、5階ではなく6階を押します。
南側一番上の扉裏の6階は、過去に幾度か最上段から
入場する際に控える場所でした。
狭いスペースのそこに控えていた幾度かのその時を
思い出します。
6階に着くと、10時少し前だというのに計量は
始まっていました。
対戦相手もすでに終了したようでした。
「深津選手は立嶋選手が切っ掛けでキックを始めた
らしいけど、それについて、」
試合前の幾度かのインタビューで記者は僕に訊ねます。
自分の中ですでに決まっている答えを求めているのが
分かるので、僕は答えません。
記者の頭の回答を期待しているのを感じ取った際、
僕はその期待に応えないよう努めます。
もちろん、僕の考えすぎかもしれません。
でも、応えません。
「で、僕に何を云わせたいんですか?」
逆に質問します。
会う人会う人が僕に云うのです。
僕にどうして欲しいのかがわかりません。
それを聞いてどうしたらいいのかも同様に。
僕が知りたいのはそういうことではありません。
対戦相手は、68戦しているといいます。
自分に6年ブランクがあるとはいえ、自分に近いキャリアが
あることに驚きました。
改めてブランクの長さと競技から離れていた時間の長さを
思い知って緊張感を覚えた程です。
試合前に届いたポスターの実物が、視界の中で怖い顔して
何かを食べています。
レフェリーの注意事項を聞いて、計量会場を後にします。
改札近くの立ち食い蕎麦屋でうどんを食べてから
気休め程度に重くなった体で電車に乗って、行きと同じ時間を
かけて船橋に戻ります。
船橋について焼肉屋で2度目の昼食を摂る際、
時間をかけてゆっくりと食べて、銭湯に向かいました。
温い露天風呂にゆっくりと入りながら筋肉を揉み解し、
帰宅して昼寝をします。
夕方、ジムに向かい、体重を量って、着替えて走ります。
走る必要も練習する必要もありませんが、でも走ります。
1時間走って、軽くシャドーをして上がります。
帰宅して、幾度目かの晩飯の準備をします。
食べたかった鯖寿司を買って帰宅して、組み合わせ云云はさておき
食べたかったものを並べます。
鯖寿司と焼いた牛肉、それと明太子とポテトサラダを食べました。
白米と緑茶が口の中で混ざって、絶妙な味と幸福感を醸し出します。
食後、たまらない眠気に襲われて22時に布団に入ります。
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全試合の回想録(全試合単体)
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これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。