マービン・ハグラー
66歳だったのですね。
もう少し上なのだと思っていました。
というのも、当時から公表している年齢よりも実年齢は上だという
噂が、真しやかに囁かれていたからです。
ということは、公表通りの年齢だったということでしょうか。
年齢なんてどうだっていいですが、ふと、80年代に
遡りました。
ネットのニュースで訃報を知り、驚きました。
1987年のレナード戦後、進退をちょいちょい気には
していたのですが、そのような報道は目にすることがなく、
既に大分時を経てカムバックしていたジョージ・フォアマン
のような再起戦を目にすることが出来ることを楽しみにしていました。
もし、大会場でなくても、注目されなくても、騒がれなくても僕に
とってそれは劇的なことになったはずです。
1985年、キックボクシングを始めた13歳の頃は、専門誌
などないのでボクシング雑誌ばかり読んでいました。
そして、テレビでは不定期で年に数回のみしか放送されないので
やはりボクシング中継を楽しみにしていました。
「アイドル」
そういうと若い女性を思い浮かべるでしょうが、言葉の意味合いとしては
異性に限らず憧れの存在ということを知り、その話になると彼の名を
口にしていました。
初めてのアイドルはドナルド・カリーでしたが、すぐに
「マーベラス」な彼が加わるのです。
ミドルネームに憧れました。
ドン・コブラ・カリー、トーマス・ヒットマン・ハーンズ、
そしてマーベラス・マービン・ハグラー。
ハグラーに関しては、頭に持ってくるのでか「ミドルネームではなく、
ファーストネームじゃねぇか。」
そんな屁理屈を嘯く中学生でした。
自分なら何にしよう、そう考えたりするも、日本人の
名に、ミドルネームは合わないことはすぐに気づきます。
階級を変えない無骨なスタイルにもスキンヘッドにも、そして、
時折見せるスイッチに、それをドキドキしながら観ていました。
サウスポーなのに、ちょいちょいスィッチしてオーソドックスで
戦うのです。
下の階級から上がっていたハーンズやデュランを蹴散らし、
26戦26勝26KOのジョン・ムガビをKOした時にはもう
流石だなと中学生の癖に勝負の何たるかを分かった振りして
頷いていました。
フードのついたガウンや、それを被って入場する姿や、リングインして
アッパーを連打する所作、その後ガウンを脱いで両拳で自らの
頭を連打する所作に、堪らない男臭さを感じたものです。
好きなボクサーの名を缶ペンケースに記し、机には彫刻刀で掘り、
掃除などで机に裏返しの椅子を乗せる際、自分の机が分かるように
椅子の裏には切り抜きを貼り付けていました。
カードケースに切り抜いた写真を入れて、下敷きにしていました。
カッティングシールで通学用鞄には「はぐらー」の文字を貼って
いました。
勿論、ホープの黒いマルシアノ、マイク・タイソンにも虜になりましたが、
でも、ハグラーが好きでした。
渡タイする前にハグラー対レナード戦が行われます。
熱戦で、とてもいい試合でしたが結果は残念ながらレナードの手が
上がりました。
勿論、素晴らしい試合内容でしたが、レナードのパフォーマンスが結果を
左右している気がしたので中学生の僕には不満でした。
それを差し引いたら結果は違ったのではないか、そう思ったのです。
タイでそのことを愚痴ったら、皆に嘲笑を浴びせられました。
アウトボクサー大好きですからね、タイ人は。
その癖、カオサイ・ギャラクシーは別物の枠に入れるのです。
ハグラーもカオサイも大好きです。
勿論、アウトボクサーが嫌いな訳ではありません。
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キックボクサーな日常と、立嶋な日常
100戦してこれまでの減量や試合にまつわる客席からは 感じることのできないことなどを 綴れたらなと思います。 なんの参考にはならないけれ…
これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。