真っ暗
不思議なもので、夢の中で思い出し眼を覚まし、そして
安堵するこの感覚を言葉で説明すると、でも、多分僕の
それと、先に決めつけて申し訳ないですが、これを読んで
想像されるそれとは違います。
怖い夢を見て眼を覚まし、安堵するかの様なそれを想像
されたでしょう。
おそらく。
でも、僕の先程のそれは似た様で少し違います。
昨夜の真っ暗な数時間の中から眼を覚まし、真っ暗な部屋の
中なのに街頭の灯りで猫さんらの輪郭が分かるそれで、
なので全然違うので安堵はしたのですが、似ていますが
少しばかり違います。
言葉巧みにこれを表現出来たら素晴らしいですが、でも、
それが出来る僕はきっと今の僕ではないでしょう。
今の僕よりも勉強も出来る僕なんて、所詮僕ではありません。
街頭のない文字通りの真っ暗を体感したのはいつ以来
でしょう。
それでも行かないといけない感覚と一緒のその時を記憶の
引き出しを開けて弄り、また違う引き出しを開けて弄ります。
何回目かの富士山に向かう駿河小山から御殿場の道中が
引き出しから出てきました。
違う引き出しから、館山に向かう最中も見つかりました。
もう、10年程前になるのでしょうか。
方や10年とちょっと前、もう片方は10年近く前と
感覚的に近いですが違います。
洞窟に入った訳でもないのに夜というだけでこんなにも
真っ暗なのだなと吃驚したものです。
自分の手が見えない暗さ、そして色んな意味の怖さ、ようやく遭遇した遠くに見える街頭だけで安堵した感覚を
電気のついていない嘘臭い日常の真っ暗で安堵しています。
終戦を確認しに宇都宮から一晩かけて歩く、若き頃の
爺さんを想いながら、気持ちを想像しながら、視界も想像
しながら走りました。
でも、稀にある街頭も、もっと少なかったでしょうし、コンビニや
自販機は一つもなく、川の水や田んぼの水をきっと啜って
夜道を進んだのかなと思うと、贅沢だなと思う訳です。
なので、遜る訳でもなく僕如きのことは幾度も記している
通り、たかが遊びなのです。
水への感謝や心に沁み込み肉体に染み込むあの感覚、
ため息が出る程旨いコンビニのおにぎり、生き返るかの
様に感じる風呂、せっかく生きているのだから生きている
ことに感謝したいなと思い、そんなことをしています。
期間限定なのです。
そう思うと希少価値あると思いませんか?
もう少し歳を取ったら出来なくなるのです。
もうちょっと頑張っておけばよかったなとか、思いたく
ないのです。
誰にでも出来ます。
そう僕を馬鹿にする人が沢山いるのは存じています。
悔しいですがその通りです。
誰にでも出来ることがあなたには出来ない滑稽さも
馬鹿にする以上、自覚していただきたい。
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キックボクサーな日常と、立嶋な日常
100戦してこれまでの減量や試合にまつわる客席からは 感じることのできないことなどを 綴れたらなと思います。 なんの参考にはならないけれ…
これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。