尻取り日記「む」無理強い

習志野ジム時代の後輩で吉田というのがいます。
新宿駅西口思い出横丁入り口で吉田商店というTシャツ屋を
やっていいます。

当時、キックボクサーや競技が媒体に出ることはありませんでした。
そのうち取材が来るようになりました。
専門誌は当時、空手やプロレスばかりでした。
キックボクシングは外国人キックボクサーが試合がある時に
カラーで掲載されるくらいでしょうか。
インタビューや他、滅多に目にしません。

試合結果で氏名が出ると、それだけで嬉しかった時代です。

ジムは駅から遠く、分かりづらい場所にありますが、1990年
過ぎてから、媒体に出るようになり、ジムの会員は増えました。
真似して高校に行かないで入会しに来る若者もいました。
そして、彼はその後タイに行きます。
加村も寺岡も、他にも才能ある人間が集まりました。
吉田もその1人です。

亡くなってしまった尾形は、成田から電車に乗って通っていました。
通っている大学のキックボクシング部の悔しい内情は、よく耳にして
いました。
皆、向上心を持って着ていました。

でも、会長がおかしいのは誰も気付いていて、だから1995年の
延藤直樹戦後に僕がジムを辞めたら1人1人やめていきます。

吉田もその1人です。
そして、会長の吉田への嫌がらせが始まるのです。

吉田は藤原敏男のジムに移籍します。
移籍するジムを間違えたことに、この時まだ吉田は
気付いていません。

習志野ジムの会長は、幾度も吉田にオファーを出します。
そして、会長の藤原敏男はそれを受けるのです。
かつての同僚と吉田は試合をします。
幾度もそう、幾度も。

嫌気がさして引退します。
頑張ろうと思える環境すら与えないジムの存在って一体
なんなのでしょう。

ボクシングの世界戦があると、会長はジムを抜けて裏にある
実家へ戻ります。
そして、中継が終わると戻ってきて我が物顔で内容と結果を
報告するのです。
云わないでくれと頭を下げているのに。
そんな人だからええ、改めてはくれません。

不在の日にファンの女性が訪ねて来ると、食事に連れて行って、
後日自慢話のように、それを僕に報告するのです。
ここにすら記せないこともいくつかあります。

「お前の母ちゃん、いいな。」
中学生の頃、よくいわれていました。
気持ち悪い、ずっと思っていました。
教え子の母親に対して思う卑猥なことを、その子供に直接云う
感覚が、です。
当時の彼は、今の僕よりずっと若い年齢です。
「ざまぁみろ!」に記述したタイでのことも、今の僕よりも
10歳ほど若い年齢です。


「ざまぁみろ!」出版したら出版社に内容証明がきました。
習志野ジム会長からです。
法的処置も辞さないとのことです。
書籍の販売中止、回収等等です。
勿論、応じませんでした。

八千代台近辺での販売中止を求めてきました。
勿論、以下同文。
僕個人のあの程度の話で済んで、感謝して欲しいくらいです。

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248字
特にお得なことはないかもですが、でも、僕が 思うこと、感じたことなどを日日綴ります。

100戦してこれまでの減量や試合にまつわる客席からは 感じることのできないことなどを 綴れたらなと思います。 なんの参考にはならないけれ…

これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。