富士山
3歳になった頃、豊島区から千葉市花見川区の団地に
越してきました。
朝、5階の自室、四畳半の窓から富士山が見えました。
「ここからどのくらいあるのだろう。」
幼児だった僕が、思ってしまったそれが切っ掛けです。
毎朝、富士山を確認します。
見えない日も勿論ありますが、晴れた日はよく見えました。
「ここから自分の足で行ったらどのくらいかかるだろう?」
小学生の頃、そんなことを考えたことが始まりです。
中学に上がって、丘の上にある中学校の校門から夕方、
富士山が見えました。
夕陽の中、影絵のように映し出される富士山はとても綺麗で、
「ここから行ったらどのくらいかかるだろう?」
自室の5階窓から眺める同様にそんなことをよく考えていました。
時を経て、新年に成田山へ御札を返しに行く歳、
「今度から自分の足で行けよ。」
運転する父は、よく僕に云いました。
走る切っ掛けは別のことで、ですが、その言葉を思い出して
24・5歳の頃に、成田まで走る様になります。
その後、息子が小学5年生になってから毎年走って船橋から
初詣に行くようになります。
10年ちょっと続きましたが、今では1人でやっています。
「今度の試合の次の日、銚子に連れてってよ。」
21歳の3月、中島(貴志)くんとの試合前に父に云いました。
翌日、車を運転しながら面倒臭そうに
「次は自分で走って行けよ。」
父は云いました。
僕は根に持つ男です。
その1年前の20歳の頃、試合後に家族4人で静岡に旅行に行きました。
「試合後に富士山が見たい。」
試合前、僕がそういったことが切っ掛けです。
「次は自分の足で行けよ。」
父は笑って云いました。
僕はしつこい男です。
なので、11年前の夏に銚子まで走りました。
そして、10年前の夏に館山を目指して走る際、東京湾の向こうに
見える富士山を見て幼少期の視界と気持ちの視線が蘇ったのです。
僕は、性懲りもない男です。
そんな訳で富士山まで走ることにしたのです。
最初は距離を知る為に麓まで。
名古屋のS氏が一生懸命悪口を掲示板に書いていました。
「ただ走るだけ。」
「誰にでも出来る。」
2・3人で数千件にたまる程、悪口を連日打つのです。
残念な人間です。
当時既に50前だった癖にAVが大好きなようです。
女性会員には卑猥な隠語を幾度も。
奥さんが昔、僕のファンだったというのがよほど悔しかったのでしょう。
その奥さんと一緒に写真を撮ってあげたというのに
残念な人間です。
でも、残念ながら誰にでも出来ます。
そして、断言してもいいです。
彼にだけは出来ません。
翌年は山頂まで。
まずは一番近い須走口から順番に、富士吉田口と富士宮口、
そして御殿場口といった具合で、年に1回ずつ全ての登山道を
山頂まで登り、そして、その翌年に往復を試みたのですが、大雨の為
8号5尺で下山しました。
そして諦めの悪い男なのです。
それがずっと心残りで、でも、次の目標に行きたいのに
それが邪魔して気持ちが向きません。
なので、今年のうちにやってしまおうと決めました。
今年、富士山まで走って往復して、来年からこの人生の目標、
父の故郷和歌山県紀伊勝浦にある立嶋家の墓を船橋から目指します。
初めての場所、そして未開な距離なので、いきなりどこまでいけるか
分かりませんが、名古屋の先までは行くつもりです。
数年前、名古屋で散散な目に遭いました。
言葉にできない嫌な気持ちを、でも、丁度その時に名古屋の喫茶店の
店主の僕についての呟きをTwitterで見つけたので、いきなり訪ねることに
しました。
「立嶋ですけど、今から行っても大丈夫でしょうか?」
連絡をすると、店主、店を開けて待っていてくれました。
言葉に出来ない嫌な気持ちを抱えていましたが、一杯のコーヒーで
大分気持ちを持ち直すことが出来ました。
来年、どこまで行けるか分かりませんが、名古屋でコーヒーを飲む
つもりです。
いきなりでどこまでいけるかは分かりませんが、最低伊勢神宮辺りまで
行くつもりです。
名古屋にある喫茶店「ロンドベル」、おそらく僕が初めての客では
ないでしょうか。
遠くから走ってその店のコーヒーを飲みに来る客がいるという店。
お店側の宣伝の材料になれればなと思います。
その気持にはこの気持で。
いつだって、そういう感覚できました。
あの日の気持ちはちゃんと返したいのです。
ただ、コーヒーを飲みに行くだけですが。
ここから先は
キックボクサーな日常と、立嶋な日常
100戦してこれまでの減量や試合にまつわる客席からは 感じることのできないことなどを 綴れたらなと思います。 なんの参考にはならないけれ…
これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。