再生への望み(その1):《クルアーン》「星座章」第8節以降をめぐって
星座章の教えるアッラーの属性
自分流に読んでみたいと思う。星座章の第8節以降は、アッラーがどんな存在なのかを示してくれている。まずは信者たちにとってのアッラー。そのアッラーを信仰していたことのせいで、信者たちは筆舌に尽くしがたい迫害を受けたのだ。しかし、杭の輩たちは、悔いるどころか、さらに迫害を続けた。アッラーがいかなる存在なのかの説明は続くが、そんなことはお構いがない。杭の仲間たち、具体的には、フィルアウンおよびサムードの民の軍隊は、信じることを拒否して、結局は滅ぼされてしまう。時間が足りなかったのか、それとも実感が足りなかったのか。滅ぼされてからでは手遅れだというのに残念である。ゴリゴリの現世主義者たちは、アッラーのどのようなところに反発して信者たちを迫害したのか、さらに、彼ら自身に対するアッラーの何たるかについての説明の範型として興味深いし、塹壕の主たちの末裔たちに対しても、この範型の説明は通じないのか、それとも何か特別な方法を考えうるのかという点でも、興味は尽きない。
早速、アッラーがどんな言葉で説明されているのかを順にみていこう。まずは、信者たちのアッラーに対する信仰の否定に関する部分である。第8節で、本章においてはじめて「アッラー」の語が出てくる。杭の輩が信者たちに対する迫害に及んだのは、信者たちが信じていたのがアッラーだったからに他ならないというくだりなのだが、その「アッラー」を、言い換えあるいは説明して、定冠詞付きで「アジーズ」(العزيز)であり、「ハミード」(الحميد)であるとする。
ここでは、いつものように、アッラーズィーに助けてもらおう[1]。例にもれず、彼の注釈は本章についてもかなり丁寧だ。まず「アル=アジーズ」、アッラーは、完全な力を持ち誰にも打ち負かされず、抑え込まれることもない御方であり、アル=アジーズは、「全能者」、つまり完全な能力の持ち主であることを示すとする。これに続く「アル=ハミード」は「称讃されるべきもの」。信者たちが言葉に出して称賛するに値する御方だという。たとえ、言葉で称讃しないものがいたとしても、存在自体は、称讃されるべきである。《存在するものはすべてアッラーを讃美している》(夜の旅章44節)と至高なる御方は仰る。
全能で称賛の対象はシャーヒドでもある
それらに続くのが、天と地の大権の持ち主としてのアッラーである。天地のありようはすべて、完全な支配権を有するアッラーの意思の実現の結果だ。これが成立するのは、彼がアジーズでラヒームだからであるとアッラーズィーは付け加えている。
さらに「アッラーは、これらの属性を持つ御方であり、まさに信仰されるに相応しい唯一の存在であり、他のいかなる存在をこれに代わることはできないし、不信心者たちは、こうしたアッラーに対する信仰を罪として扱うことがいかに無知であるかを表している」とも指摘する。
アッラーが「アル=アジーズ」とされるのは、信者たちを迫害する暴君たちをとめ、彼らの火を消し去り、彼らを死に至らせる力があること」を示している。また、「アル=ハミード」としたのは、「アッラーの行為がその結果に基づいて評価されるべきこと」を示している。さらに「アッラーの猶予を与えているように見えたとしても、それは放置しているのではなく、アッラーの御心や最善の目的によるもの」であるとも言う。
そして、アッラーは、信者たちに報酬を与え、不信心者たちに懲罰を与える。その時期を遅らせるのは、御心や慈悲に基づいている。「アッラーはすべての事柄に対する証人である」とは、信者にとっては大きな約束であり、不信心者にとっては厳しい警告である」。
こうした、アル=アジーズで、アル=ハミードで、天地の大権者でもあり、それこそならびなき唯一の存在とであり、かつ、すべての事柄をご覧にもなっている(シャーヒド شاهد )としてのアッラーを信仰しているとなるとz塹壕の主たちからすれば、自分たちの信仰の対象とのレベルの違いに気づきそうなものだが、彼らもまた地上で、権勢を欲しいものにしていた輩である。自分なり自分たちへの服従に戻らなければ、つまり、自分たちの言うことを聞かないのならば、執拗な拷問にかけ刑に処すということになるのは権力者にあっては、きわめて起こりがちなことである。
悔悟、できるわけがない。
はっきり言おう。彼らは、自分たちを神としてしたがわせることが最終目的なのである。つまり、人が行なう人に対する支配である。そこにアジーズでハミードで天地の大権を持った存在など、どうでもよいのだ。ただ、自分たちから離れることだけは許さない。アッラーが何者であるかとは関係なく、信者たち――信念に基づいて死をも辞さない抵抗に出てくるため――当然迫害の標的になる。第8節の「ナカマ نقم 」が、「処罰」のニュアンスを持つのに対し、第10節の「ファタナ فتن 」は、「試練、試み」であり、この場合、信者たちを火に晒した行為を指すとされる。イブン・アッバースとムカーティルは、第10節の「信者たちを試練にかけた」とは、「彼らを火で焼いた」という意味だと解しているとも言う。
おそらく、塹壕の主たちは、思考を停止して迫害を続けているため、悔悟などするわけもない。となれば、アッラーのロジックに従って、罰せられることになる。《地獄の苦しみがあり、…また焼けつく炎の罰があろう》。ここであえて、2つの懲罰が掲げられているが、いずれもが来世での懲罰だとする見解と、地獄の苦しみの方が来世で、焼け付く炎の罰の方が塹壕の火が逆に彼ら自身を焼いた現世での罰だなど現世、来世の双方で懲罰に苛まれることだという見解とがあるとされる。
これに対して、信者たちに対しては、そして、悔い改めた者たちに対しても、彼らが信仰と善行をセットで励めば、「下を川が流れる楽園が与えられる」。タバリーは、その川に流れているのは、酒と乳と蜜だとした。この解釈は、当時の人々にとっての幸福の象徴であったとすると理解できる。 そして《それは、偉大なる勝利である》とする。「それ」とは、楽園そのものではなく、楽園に入れることになったアッラーの満足であると解することができる。信者は、日々アッラーの満足をよき行いの最終的な目的としており、まさに、その善行に対する報いが与えられるのだ。
創造し、戻らせる御方
アッラーからの本章でのメッセージは、後半へ入っていく。《まことに、あなたの主の懲罰は厳しい》(第12節)と来る。アッラーズィーもサーブーニーも、アブッサウードの言葉を引いている。「懲罰(バトシャ)بطش」とは、暴力的に取り押さえることを意味し、これが「厳しい」とされる場合、それは倍加し、増大したものであることを示している」という。そして、《かれこそが最初に創造し、そして再び甦らせる》(第12節)と続く。つまり、アッラーは無から創造を行ない、やがて滅ぼし、その後再び甦らせる。それは「彼らを審判の日に報いを与えるため」とアッラーズィーは言う。
たしかに、「バトシャ」が何倍にも巨大化するというメッセージからは、実際に後ろの16節以降で言及されるように、フィルアウンやサムードの軍勢が滅ぼされたように最後の日の1回の復活のことを思う。
しかし同時に、フィルアウンにしてもサムードにしてもその軍隊にしても、現世的に滅ぼされたのに過ぎないのであって、この世が滅び去る最後の一撃による最後の日の懲罰がどうなるのかは、知る由もない。いや、もちろん、パラレルワールド的に、来世での懲罰はすでに始まっているのかもしれないが、現世を見る限り、よみがえっているという点では、塹壕の主たちもまた同じではなかろうか。フィルアウンも、サムードも、過去の話ではない。注釈においても、彼らは歴史上の例に過ぎず、塹壕の主たちも創造され続けているのだ。
そもそも、アッラーの創造自体が休むことを知らない。この瞬間もアッラーの創造は続いている。次から次へと新しい被造物が誕生し続けているのだ。それは、たとえばクルアーンの中に、もちろん星座章の中に閉じ込められた話ではないはずだ。アッラーの創造は続くし、この世での復活(むろん、個のレベルでの復活、つまり生き返りではないため、「新たな創造」とするべき疑似的な復活は存在する。塹壕の主と呼びうる軍事力に頼んだ暴政者、圧政者が今なお繰り返し登場する事態は、周知のとおりである。この創造と再生の物語は、あるいは、終わりなき新たな誕生の物語は、過去のものでも、特定の人々に限った話でもない。
復活はあの世だけのものか?
現に至高なる御方は言う。
《…またアッラーが天から降らせて死んだ大地を甦らせ、生きとし生けるものを地上に広く散らばらせる雨のうちに…》(雌牛章164節)
《彼らは頭上の天を見ないのか。われがいかにそれを創造し、いかにそれを飾ったか。そしてそれには、少しの傷もないというのに。》(カーフ章6節)
《また、われは大地をうち広げ、その上に山々を据え、さまざまな種類の美しい(草木)を、生い茂らせる。(それらは)悔悟して(主の御許に)返る凡ての僕が、よく観察すべきことであり、教訓である。》(カーフ章7・8節)
《われはまた、祝福する雨を天から降らせて、果樹や収穫の穀物を豊かに生長させる。》(カーフ章9節)
《本当にわれは生を授け、また死を与える。われに(凡てのものの)帰着所がある》(カーフ章43節)
アッラーは、天と地とその間にあるすべて事物の大権を有する御方であったが、カーフ章38節によれば、これを6日間で行なったとし、《しかしわれは少しの疲れも感じることはなかった》(カーフ章38節)のである。つまり、この世を創造した後であっても疲れることがない。その生の付与と、死の付与とは、弛むことを知らない。実にこの世は、アッラーの新しい創造、あるいは、彼の創造と甦りに溢れていると言えそうだ。また、悔い改めて(ムニーブ)主の御許に返る凡ての僕は、これらをよく観察すべきであり、それが教訓でもあるとしている点も、イブラーヒームが悔い改めた者であったことから多くの人に当てはまるに違いない点に鑑みたとき、人間にとってアッラーの御業の観察の必要も指摘できそうだ。
いずれにしても、この《彼こそが最初に創造し、そして再び甦らせる》(星座章第13節)に続いて示されるのが、「赦し深い御方」「愛情深い御方」「玉座を持つ御方」「栄光ある御方」「望むことを何でも成し遂げる御方」というアッラーの5つの属性である。アッラーズィーはこれらを「アッラーの威厳と偉大さを示すためのもの」としている。彼の注釈にしたがって、少し詳しく見ていこう。(次号へ続く)
脚注
[1] كتاب تفسير الرازي https://shamela.ws/book/23635/5974
この頁以降の記述を参照し、「」書きにて引用も行っている。
タイトル画像
春来る(筆者写す)相模原市緑区牧野地区牧馬