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トルコ・シリア地震から1年

被災者推計180万人

2023年2月6日(月)未明、未曽有の大地震がトルコ南部とシリア北西部一帯を襲った。シリア内戦もあれば、クルド人問題もある、人間の主義主張の深刻な亀裂が人々を引き裂いている一帯での出来事である。寒さが厳しかった昨年の冬。震源の深さがほんの10キロ。マグニチュード7.8,7.6に立て続けに見舞われた。あれから1年。被災地の一つ、シリアのアレッポの独立系非営利のメディア「Halab Today TV」が、震災1年の特集番組を6日に放送している。

番組によれば、シリア北西部の被災状況に関して、Civil Defense (White Helmet)の発表として、現在までのところで、死者5000人以上、倒壊家屋4万8千戸、被災者は推計で180万人。国際支援機関等の関係者も255名の死亡が確認されているとする。そしてこの地震の物的・経済的損失は、2000億ドル(約30兆円)に及ぶという。今年の元日に能登半島を襲った地震では、死者が、238人、避難者1.4万人とされる。懸命の捜索と、被災者、避難者への物心両面での支援が続けられている。被害総額として言われているのが、1.1兆円から2.6兆円。安易な比較は慎むべきだが、シリア北西部の地震の人的、物的な被害が桁外れであることは疑いようがない。

天災も人災も

番組がヘッドラインの一つで伝えたのが、国際的な関心の低下への懸念である。当初、トルコに比べると、シリア北西部の情報はまったく伝えられなかった。数日してBBCなどが現地に入りようやく少しずつ状況が明らかになっていった。支援活動や、支援物資も同様で、今に至るまで十分な支援は行き届いていない。1年たっても、そんな状況の中で、国際社会の関心は、ガザのパレスチナ人に対する人道支援に移っている。現地担当者は、関心の低下は否定しつつも、支援物資の量が減っているのは確かだとする。人道支援資金の融資は、38%に過ぎず、シリアでの人道危機の始まった2011年以降もっとも低い水準だという指摘もある。資金不足はどうにも否定できないようだ。

このシリア北西部は、いわゆる反政府派とされる人々が暮らす地区だ。現地の人々による懸命の復興作業は続くが、震源付近の激烈な揺れに徹底的に破壊され、その上に、ロシア軍とアサド政権による空爆によってもまた破壊される。そしてこの二つの惨事のせいで国際支援が中断する。天災と人災の両方に苦しめられ続けた1年だったという。震災から1年たってはじめて国連の代表使節が、避難民キャンプを訪れ、相当額の支援と住民たちからのヒヤリングを行った。復興へ向けた歩みがようやく始まったということであろうか。

イスラエルの息子たちの掟

しかしながら、こうして数字を並べてみたとき、イスラエルのガザ侵攻により、2万5千の命が奪われている事態が、いかに常軌を逸したものであるかがわかる。東京大空襲しかり、広島・長崎の原爆投下しかり、戦争という人災は,天災をはるかに凌駕してしまうということでもある。

聖典クルアーンの中に、アッラーがイスラエルの子孫に対し、定めたという掟がある。この地域に住む人々に広く信じられている一神教の教えの一つである。

《人を殺した、あるいは、地上で悪を働いたという理由もなく人を殺す者は、全人類を殺したのと同じである。人の生命を救う者は全人類の生命を救ったのと同じである》

《クルアーン》食卓章32節

つまり、「罪のない人を一人殺すのは、全人類を殺したのと同じであり、人をひとり救うことは全人類を救ったのと同じ」という考え方がある。人命はかけがえがない。人間全体が一つの種であり、言語の違いによる人種間の優劣はないとも教える。親が誰で、どこで生まれ、どこに住み、何を食べていようが、どんな仕事をしていようが、あるいは、どのような好みを持っていようが、そうしたことを理由に差別されたり、生存を脅かされたりしないのだ。そこでは「人間は、ただ人間であるという理由だけで」その存在が肯定される。まさに、天が与えた生きる権利である。

巨大地震は織り込み済みだが、しかし…

ところで、聖典クルアーンの中に、「地震章」という章がある。天変地異を伴う巨大地震の発生が告知されている。《大地が揺れに揺れたとき、そして大地がその中にあるものを吐き出したとき、人間たちは言う。なにが起きたのかと》。そして、その日、一人ひとりの所業が明らかにされ、どんな小さな善でもそれを行なった者はそれを見、どんな小さな悪でもそれを行なった者はそれを見る。つまり、最後の審判の裁きは、微に入り細に穿ってひとり一人に寄り添う。今回の桁外れの破壊的打撃の中で、少なからぬ人々がこの聖句を思い出し、この世の終わりを感じたことであろう。しかし、だからといって、地球は消滅しない。少なくとも生きている者にとって最後の審判の時は今ではない。ただ、大地の裂け目は、人間たちの作り出した深刻な亀裂を暴き出してくれる。

イドリブから北へ広がりトルコとの国境に接する地域は、反体制派が支配する。アサド大統領は、当該地域への支援も、すべてダマスカスを通せといい、国連は、同地域にもっとも近いトルコのバーブルハワーから運び入れるという。ダマスカスを通せば、当該地域に届かない恐れがトルコ経由で行けば、テロリストを助長する内政干渉だとして当該地域が攻撃される恐れがある。人道支援は、人間不在の政治駆け引きの道具でしかない。敵とか味方とかではなく「人間として」守ってもらえるかどうか、つまり天の与える慈悲慈愛をどれほど現実のものとして受け取れるかどうかは、結局、地上の権力関係に大きく左右されるのだ。

トルコ・シリア地震だけではない。本来地球が持っていたはずの余裕は、人間社会の拡大にすっかり食いつぶされている。たとえば、温暖化により北極の氷は溶け、安住の地を奪われた北極海の寒気が断末魔の猛威を振るう。ヒマラヤの氷河が洪水となってパキスタンを襲う。海水温も上昇し、台風の巨大化、線状降水帯の頻発を招く。元凶は温室効果ガスにありとの認識も、対応の足並みはそろわない。むしろ、地上の権力は、カーボンは出したい放題で、ロシアとウクライナの戦争、イスラエルのガザ殲滅侵攻を狡猾に利用し、世界中に冷戦期とは比べ物にならない2極化を押し付け、領土や覇権をめぐる戦争に備える軍備拡張の道を突き進む。サプライチェーンの分断で、食糧も、エネルギーも、経済も大きなダメージを被り、世界には敵と味方の2つの人種しかいないような状況が生まれつつある。「ただ人間として」が本当に難しい。

命の重さは地球の重さ

そうした状況の中で「戦争」ができる国になってしまったら、「人間として」の道はこの国からも遠のく。日本国憲法には、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とある。

原爆を投下され、いく度の大震災に見舞われ、それに伴う原発事故も経験した。2024年は元旦から、能登半島一帯が1000年に一度ともされた大地の裂け目の活動による惨禍に見舞われた。その翌日には、救援に向かう自衛隊機が民間航空機と羽田空港滑走路で接触事故を起こした。そんな日本の知恵とその実践の共有が待たれている。そのためには、戦争も武力の行使も威嚇も、また、それにかかわる一切も、完全に放棄することが求められる。

他方、SNS、AIの発展のお陰で、困窮や痛みを瞬時に共有することも可能になりつつある。そうなると、完全な戦争放棄をベースに、「人間がただ人間として守られる」「人間ファースト」の地球社会の人と人権の在り方の議論も現実味を帯びてくる。人の命は掛けがえがなく、人の間に優劣はない。「人間」が「ただ人間であるという理由だけで守られ」れば、人は少なくとも、社会の裂け目から生み出される戦争やその脅威から解放される。天災で命を奪われた人々が、残された人々に戦争という人災によるあえての死をましてや殺人を望むであろうか。アッラーフ・アアラム。

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