「魂を汚す」とは:聖典クルアーン「太陽章」第9-10節をめぐって(後編)
創造と命令、そして霊
霊長類の長としての人間。他のいかなる生き物より、あるいはほかの霊長類に比べても、圧倒的に霊の恩恵を被っている人類。現象界にありとあらゆるものは「宇宙霊」から生み出されたとする[1]中村天風翁は、繰り返しそう主張する。
それはイスラームにおける「霊 (ルーフ الروح)」の考え方にも近い。すなわちイスラームにおいてもまた「ルーフ」は、すべての人に等しく吹き込まれているのだ。それは決して、特定の何者か、たとえば預言者にだけ与えられるような特権的な何かではない。誰であったとしても、心の状態が平安であれば、ルーフの光が満ち溢れ、ルーフのままに生きることが可能になる。もちろん、それを常態化することは至難の業だが、そのことは、人間の天使的振舞いに垣間見ることができる。
しかし、誰かの天使的な振舞いに救われたことがあったとしても、そしてそれを突き詰めれば「霊」にたどり着くにもかかわらず、その「霊」を吹き込んだ「アッラー」のことは、まず顧みられない。しかし、それもこれも創造を行なっているのはアッラーではないのか。アッラーは、ご自身が、ハルク(創造)とアムル(命令)の持ち主ではないのかと反語的に疑問を呈している。
つまり、何かが存在しているとき、その創造は、アッラーの命令によるものなのである。命令がありその結果創造が行なわれる。命令とは、すなわち《あれ》であり、その結果《ある》のだ。人間がアッラーの代理人であるのなら、人間もまた、モノを作る際にはまず命令があって、その結果何かが作られるとみることができそうだ。その命令は、明示的あるいは暗示的であって、そこに意志があるからこそ、モノであれ、事柄であれ、それが生まれるということになろう。
その際、「ナフス(自分自身)」[2]やルーフはどのように位置づけられようか。アッラーの命令に違反することのないルーフ本来の実践が行なえる状態が実現するためにはナフスが平静に落ち着いていることがどうしても必要になる。アッラーの命令を十全に受け止められる状態が準備されていてこそのルーフの発動である。ルーフのままに生きるとは、アッラーの命令の実践を滞りなく行うことであり、そこではアッラーの創造の一部を担う、きわめて積極的な動きが伴われることになる。
無条件の自己肯定
しかし、どれほど病んだナフスの持ち主であったとしても、この世に、ルーフを吹き込まれて生を享けていること、そしてその命(ナフス)は、唯一無二のものであることが忘れ去られてはならない。つまり、アッラーに創造された結果としてこの世にいるのだ。ありていに言えば、アッラーにもらった命。他の誰にも奪われる筋合いはない。今もしも、生きているのなら、生きていていいということだ。そして生き続けよということであろう。つまり、自己の存在は、無条件に肯定されているのだ。大前提として「ナフス」が肯定されているのだ。だからこそ、そのナフスをナフスが否定するような言葉を発してはいけないのだ。
ナフスが深まって、ルーフの輝きによって自らが動き出せるようになるためにも、ナフスをいたずらに否定して、心をざわつかせ、生きているのに、生きる希望、すなわちルーフの光を打ち消しあるいは厚い雲で覆って、ついにそれを見失うような真似をしてはいけないのだ。
「暑くてどうしようもない」、「痛くてどうしようもない」なんて口走ってはいないか。「暑い」「痛い」は、事実として受けとめるとしても、「どうしようもない」と言ってしまったら、それを感じているナフスは見捨てられることになる。本当にどうしようもないのか?少なくとも、それがアッラーの思し召しなら、有難く受け取ることはできるはずだ。「悲しくてどうしようもない」、「憎くてどうしようもない」、「妬ましくてどうしようもない」、「腹が立ってどうしようもない」などは2次的な感情でナフスの悩みの種ではあるが、少なくともそうした感情の言いなりになってしまったら、これもまた、ナフスを委ねる先を間違えていることになる。ナフスをナフスに委ねてしまっては、それこそどうしようもないし、それを他人に言って回ったとしたのなら、それこそ、出口の見えない悪魔の呪いの言葉になる。
中村天風は言う。
自分自身に対する物言いは言うまでもない。アッラーはすべてを御存知。
簡単に滅ぼされるな
サムード族は、殲滅させられた。聖典のクルアーンの中には、サムードに限らず、一族まるごと滅ぼされた民への言及が散見される。
しかしこれは、預言者ごとにミッラがあるという形で、人々を束ねていることに起因するものと考えられる。宗教・宗派を意味するミッラだが、新しい預言者が出てこない以上、新たなミッラも出てこないことになる。おそらくそこには2つの展開が考えられる。ミッラのつながりが伝統によって強化されより強固になるという展開。もう一つは、ミッラの求心力が弱まり、解体の方向に向かうという展開である。
サムード族は、老若男女を問わず根絶やしにされた。アッラーの雌ラクダへの水やりを蔑ろにし、殺してしまったからだ。何と恐ろしいこと。根絶やしにした張本人たちは、人間たちだからだ。自然災害であったとしてもそれにそうした意味付けを行なったのも人間だ。たとえ、つながりが強固になっているように見えても、そのつながりだけで生きていないのが、今の人々ではないのか。むしろ、個としてのナフスの在り方が問われているのが今なのではないか。なぜ一緒に滅ぼされなければならないのか。
決して、どうしようもないことではない。生きている限り、生きていていいのだし、自分を励まし、勇気づけていくことがむしろ、アッラーの命令の実践と創造につながることなのだから。
十把一からげに、人にも、自分自身にも滅ぼされること勿れ。呼び名は何であれ、唯一にして絶対の創造主の存在を常に意識する。たとえ目には見えなくても、その存在は、ひとり一人とともにいてつねに見ているのだ。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
脚注
[1]中村天風『運命を拓く:天風瞑想語録』講談社文庫、54頁。
[2]「ナフス」については、次の論考を参照のこと。
https://note.com/assalaam_action/n/ncee3de6f2c94
参考文献
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