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解題:「読め」と言われたのに…

もともとは、『愛媛新聞』超ショートショートコンテスト(2022年)への応募作品。5つの指定テーマの中から「本」を選択した。
大切にされながらも内容を理解する対象として読まれることがなくなってしまった神の言葉の書《聖典クルアーン》の現状に対する危機感をにじませる。

「本の神様」とは、預言者に「読め」という命令から始めて、一連の啓示を下した、至高なる御方、アッラーのこと。本の形にまとめたのは、人間たちなので、「本という形でそのメッセージがまとめられることになる神様」である。啓示が下された当時のアラビア半島は、多くの人々が金持ちの奴隷として主人のために理不尽な労働を強いられていた。

そんな折、アッラーは、一族の中から誠実で人々が信頼を寄せる人物、ムハンマド(彼の上にアッラーの祈りと平安あれ)を選んで、啓示を下した。その最初の一言が「読め」であった。町から離れた洞窟で瞑想を行なっていた時のことであった。彼は、それが啓示だともわからず、恐ろしさにガタガタ震えるばかりだったが、周りからの助言も得て、預言者として立ち上がることになる。

アッラーは、この男を通じて、様々なメッセージを送り続けた。徐々にこの男のもとに同士が集まった。そこでは、皆が人間として扱われた。当然、ありとあらゆる嫌がらせや敵対行為に見舞われて、居住地を移すほどであったが、結局、いくつかの大きな戦いを経て、彼らは勝利し、凱旋も果たした。
ほどなく預言者が亡くなると、人々は、預言者を通じてくだされたメッセージがバラバラになり、対立のもととなり、失われてしまうことを恐れた。メッセージは一冊の本にまとめられ、異説は廃棄された。

この本にすべてのことが書いてあるとして、最初のうちはとてももてはやされた。イスラーム圏で科学が発展したのも、この本の読みに負うところが無視できない。アッラーは何者なのかはもちろん、森羅万象の摂理、過去からの教訓、人間の本質、人生の真実、あるいは、社会のルールに至るまで、人々はその本を参照しながら、大陸にまたがる文明を築いていった。この預言者の教えは、膨大な数の信者を得た。

ところで、この本は、それを伝えた預言者の言葉に直して下されていた。アラビア語である。アッラーの教えを伝えるのにもっとも相応しい明瞭なる言語である。しかし、信者が増えるにしたがって、アラビア語を知らない者たちも仲間に加わるようになっていった。
現在、20億の信者がいるとされるが、そのうちアラブ人は、多く見積もっても4-5億人というところ。4-5人のうちの1人しか、この本を自分の言葉で理解できないことになっている。この本は他の言語に訳されてしまうと、「聖典」であることをやめてしまい、ただの解説本になってしまうのだ。

しかも、この本の意味は多義的だ。つねに新しい解釈が求められる。時代や読み手の状況に即した意味が探究し続けられてはじめて、この本は聖典になると言ってもよい。この本に収められているメッセージの主は、この世を今も営々と創造し続ける御方だからである。暗唱するという意味での「読み」ではなく、新しい意味を発見し理解し、生かしていくという意味での「読み」こそがこの本の生命線なのだ。

しかしながら、多くの信者は、お祈りのために必要だとして暗記はするが、意味を尋ねようとはしない。創造主の創造は刻々と更新され、そこにも無限のメッセージがちりばめられているというのに、そのことに気づこうともしない。預言者は、彼が最後で、あのようにまとまったメッセージを受け取る存在はもう出てこないけれど、メッセージ自体がなくなったわけではないのに、覚える読みにだけこの本を使って、あとは大切に本棚のいちばんいい場所に置かれている。アッラーの満足からはどうも遠いことになってしまっている。

この本は、イスラーム教徒のアイコン的存在でもあるため、彼らが憎悪の対象として焼却の危機にも見舞われる。となれば、本を信じている人たちは、一斉に抗議を行う。
信者からすれば、本の焼却はあり得ない冒瀆だ。しかし、「読め」と言われた本を、求められているように読まずに、いわば未完成のままに放置している。そのことの方がよほど冒瀆なのでないかと私には思われるのだ。自戒を込めて。


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