永遠の「語り」でもある「主」の「読み」とは:聖典クルアーン凝血章(第1節にかんして)
1. それは「イクラァ」から始まった
「読め」、「誦め」と訳される「イクラァ」。「読め」とだけ訳したのでは伝わりきらない語感があることがにじみ出る。イスラームの啓示がそこから始まったのであるから、「イクラァ」についてまずは考えておこう。
自分が預言者に選ばれたことなど知る由もないムハンマドが最初に聞かされた言葉がこれだった。その経緯は、アーイシャが伝えるハディースに詳しい。
「啓示の最初は、睡眠中の信頼にたる夢からだった。それは決まって闇を割く暁の光のようにやって来た。その後、彼は孤独を好むようになり、ヒラー山を訪れ、崇敬行為に励んだ。そこで、いく晩も過ごしたのである。その後、家族のところへ戻り、(こもるために)補給を行う。それからハディージャのところへ戻り、彼女からも補給する。そして、ついにヒラーの洞穴に突如真理が齎されたのである。」
「彼のところへ天使がやって来て、言った。「اقرأ 読め」。アッラーの御使いは言った。「私は読むことができない」。彼は続けて言った。「するとその天使は私を捉え、気力が出るまで私を押さえ付けてから緩めて、言った。「اقرأ 読め」」。私は言った「私は読むことができない」。すると天使は、私を捉え、再び、気力が出るまで私を押さえ付けてから緩めて言った。「اقرأ 読め」。私は言った。「私は読むことができない」。すると天使は、私を捉え、もう一度、気力ができるまで私を押さえつけて言った。
اقرأ بسم ربك الذي خلق. خلق الإنسان من علق. اقرأ وربك الأكرم. الذي علم بالقلم》 》
聖句は《علم الإنسان ما لم يعلم》という彼の言葉までである。
文字を読めないムハンマドに、天使が降りてきて「読め」の命令。そして3度にわたって彼を押さえつけて、凝血章の最初の5節をムハンマドの胸に刻み込んだのである。
2.読めなかった「読め」
そのあと、ムハンマドはどうしたのであろうか。アーイシャが伝えるところによると、彼は恐怖とともにハディージャのもとへ帰り、「私を覆ってくれ、私を覆ってくれ」と叫んだという。(『正伝ブハーリー』4巻532頁)。覆ってもらったムハンマドは、恐れからは解放されたが、気が狂ってしまうのではないか心配だとハディージャに訴える。彼女は、ムハンマドが神を怒らせるようなことは何もしていない、むしろ喜ぶべきとして、彼女の従兄弟、ワラカ・ブン・ナウファルのところへ彼を連れて行った。
ワラカに、ムハンマドが見たことを話すと「それはかつてムーサに啓示をもたらした天使にほかならない。私はもっと若ければよいものを」と言ったという。そして、かつての神の御使いたちのように人々から迫害を受けるとも予言している。「生き続けられれば、精一杯あなたを助けましょう」と言っていたワラカではあったが、間もなく他界した」。
このハディースによれば、凝血章の冒頭の5節を聞かされた時点では、ムハンマドにそれがアッラーからの啓示であるという認識はなかったと考えざるを得ない。「読め」と命じられたが、読めなかったのである。この段階では啓示を読むとはどういうことなのかも明らかではない。
3.神の「読み」、人間の「読み」
ところで、「読めない者」(つまり文字を知らない者)の「読み」とはいかなるものなのであろうか。もちろん、文字を読むだけが読むことではない。クルアーンの場合はどうか。その手掛かりが復活章にある。
それのまとめと、それの読みが私たちの義務
私たちがそれを読んだ時には、その読みに従え。
逐語訳すると上のようになる。ポイントは、クルアーンという言葉の意味。定冠詞がついて、アルクルアーンとなっていたのなら、聖典クルアーンのこと。しかし、この語には一般名詞としての用法も想定される。
『リサーヌ=ル=アラブ』によれば、動詞「قرأ」の動名詞の一つに「クルアーン」が挙げられている。一般的には「قراءة」のみだが、「読む」という動詞の名詞形としても用いうるのである。
となると、日本語訳も、できれば同じ語であることが望ましい。
訳語の検討
この箇所が既存のクルアーンの邦訳においてどのように訳されているのかを見ておこう。
・日本ムスリム協会訳(『日亜対訳注解聖クルアーン』)
《それを集め、それを読ませるのは、われの仕事である。それでわれがそれを読んだ時、その読誦に従え》(復活章75:17・18)
・井筒俊彦訳(『コーラン』岩波文庫)
《これ(啓示の文句)を集め(マホメットの心の中に集める)、これを誦ませる(マホメットの舌を自然に動かして天啓を語らせる)のはわれらの仕事。さ、我らが誦んでやるから、汝はその読誦について行くがよい》。
・中田考訳(『日亜対訳クルアーン)』
《その(胸中への)収集(記憶)とその読誦は、われらの務めである。それゆえ、われらがそれを読み聞かせた時にはその読誦に従え》
太字で表記した箇所が、「そのクルアーン」に当たる部分。3つの訳のうち、訳語を揃えているのは、中田訳のみ。
この場合、「読ませる/誦ませる」と「読誦」は、アッラーが自らの義務を示す文脈上、誰が行なうのかが分かれてしまう。
「読ませる」とすると、読むのは、「われら(アッラー)」以外、つまり、ムハンマドになる。「読誦」とすれば、読むのは「われら(アッラー)」である。この違いは大きい。
4.誰が読むのか
2番目の聖句の冒頭には、「われわれが読んだ時」とある。つまり、われわれは、「読む」。
この「われわれ」が気になる。
しかも、聖典クルアーンの中で、「われわれは読んだ」という完了動詞の一人称複数形で降されている箇所は、この一か所だけである。
فَإِذَا قَرَأْنَاهُ فَاتَّبِعْ قُرْآنَهُ} (18) }
通常、この一人称複数は、アッラーを示すものであるが、サーブーニーの注釈は、わざわざでこの「われわれ」を「天使」であるとしている。
「もしもあなたのところにジブリールが来て、それを読んだ時には、終わるまでそれをよく聞くように耳を澄まし、彼が読んでいる間は、唇を動かしてはいけない」と解説している。
読み聞かせるのは、ジブリール。「われわれ」に含まれるということになる。となると、アッラーが一人称複数で語るときには、天使のような存在をすべて含めた上の話という可能性さえ出てくる。アッラーの意向のままに動くのが天使。実際に「読む/誦む」のが天使であったとしても、アッラーが読むことになる。これについてここでは可能性の指摘にとどめておく。
5.アッラーの属性:「語り」「語る者」
ところで、アッラーの存在的概念的属性の一つに「語り」がある。その存在的意味的属性に「語る者」がある。
これは「古い」属性であり、始まりもなければ、終わりもない。しかも、その語りは、文字にも音声にもよらない。言葉のルールと語彙を通じてしか表わすことのできない、生起物の生起物としての「語り」とは別次元のものである。
この「語り」とのかかわりで言えば「クルアーン」も、アッラーの語りの一部をまとめたものであろうが、啓示以前のクルアーンは、文字や音声によって語られたものとは言えない。
「インナアライナー・ジャマアナー・ワ・クルアーナフ」とアッラーは言う。
「集めること」と「読むこと」は、アッラーの義務だと。しかもこの義務は、アッラーの義務であるため、必然と言うべきものである。サーブーニーの注釈によれば、「ムハンマドの胸の中に集めてそれを保持させること」とする。
もちろん、その語りの読みは、ジブリールの卓越した発音による。それによってクルアーンというまとまりは、預言者に伝わるアラビア語の音声と、それに付随する形での文字を得ることになる。しかし、クルアーンの原型が吹き込まれている可能性も残るのだ。
6.すでに預言者はいない
ムハンマドが最後の預言者であるという状況の中、そして、クルアーンのムスハフが我々の手の中にあるような形で固定されてしまっている中、今も語り続けているアッラーの語りを知ることはできないのであろうか。
「語り」と同じ範囲で、この世の存在物とのつながりを持つ属性に「知」がある。知っていて、語ってくれているのがアッラーだということにもなる。
「神は凡てを語り、人は彼から僅かを聞く。神は凡てを知り、人は彼から僅かを学び、ペンで書く」。
「イクラァ」「創造を行なったあなたの主の名によって」「イクラァ」「そのあなたの主は、人間たちに筆で教えた最も寛大な御方。人間たちが知らなかったことを教えた御方」
つまり、アッラーは、人間たちの知らないことを人間たちに書くこと(たとえば文字や絵画)によって教えた、最も寛大な御方であり、人間たちが知らなかったことを教えた御方でもあるという凝血章の4節・5節の内容がつながることになる。
アッラーの語りが人間に埋め込まれていて、ルーフを吹き込まれているとするならば、アッラーの語りを人間の天使的な部分が言葉として引き出してくれるかもしれない。
それが聖典クルアーンであるとわかったのは、その後のこと。であるにもかかわらず、一般的には、「聖典クルアーンを読め/誦め」と解される。その解釈自体がもうすでに、神の語りを聞き損なっていると思われる。語りが聞けるのは預言者だけとするならば仕方のないことかもしれない。
とはいえ、人間は、彼から教わることはできる。それまで知らなかったことを教えてくれるのが神なのだから、神の知を知ることはできる。語りを預言者のようにジブリールを介して直接聞くことはできなくても、埋め込まれ、保持されているはずの「語り」はあるし、「知」を学ぶことはできるのだ。預言者の封緘後、地上に命を与えていただいた代理人として、間違いだらけだけれど、読むことにも、知ることにも力を尽くす。究極の学びの姿かもしれない。