「障害は個性」と言ったことのある人たちよ、聞いてくれ
明らかに何か言ってきそうなタイトルなのに、開いてくれてありがとうございます。
言葉足らずになりがちではありますが、皆様を批判する意図はありませんのでご理解いただけますと幸いです。
冒頭から失礼な話をぶっ込みますが、
私は「障害は個性」と言われるとモヤります。
言ってる方には悪気がない場合が多いのですが、とにかくこの言葉は社会に与える誤解が大きいからです。
私は小学生の時にアスペルガー症候群と診断され、うつ病は6年目にもなりますが、声を大にして言いたいのです。
「障害は『障害』です。」
悪気はないのは分かるけど
もともと、「障害は個性である」と言われ出したのは1970年代、始まりは過激な活動をしていた障害当事者の団体だったようですが、
少なくとも現在は「障害は個性」と言われて喜ぶ障害者は少ないように思います。
実際、よく見るんですよ。
「『障害は個性』なんて暴論だ!」
みたいなご意見。
というか私も昨日まで思ってました。
「個性だなんて無理解も甚だしい。ふざけるなよ」と。
でも冷静に考えたらこう思ったんですよ。
「この人たち、差別はしてないな」と。
つまり、悪意がない方が多いんです。
なんなら良かれと思って言ってますよね?
完全に推測ですが、優しい気持ちで声をかけていた方が多いのではないでしょうか。
無知は人を傷つける
障害者に出会った。
かける言葉が見つからない。
こんな時、とりあえず思いついた優しいっぽい言葉をかけようと思いますよね?
いや、そりゃそうですよ。
分かりますよ。
「私は障害は個性だと思っているよ」
言いたくなるでしょう。
でも、皆さんが伝えたかったのって、
本当にそこですか?
「障害は個性だと思っている。
だから私はあなたを差別はしない。」
これじゃないですか?
本当に言いたかったのは。
でもこれ…
逆効果です。
いや、わかりますよ?
優しい気持ちで言ったんですよね。
分かるんですよ。
分かるけど惜しいんですよ。
「ガイジww」とか笑ってる人間と比べたらもうそりゃめっちゃ良い人だと思うんです。
ありがたい存在なんです。
でも、少なくとも当事者の1人である私はこう感じるわけです。
(あ、この人、悪気はないかもだけど、私が障害のせいで困ってることなんて1ミリも分かってないんだろうな)
そうして超えられない壁を目の前に感じ、
無言で心を閉ざします。
ワガママ言ってることも分かりますけど、私たちがこう感じるのには理由があるんです。
それは、
「障害は個性」という言葉を隠れ蓑に、
障害者に支援は必要ないという風潮が生まれるからです。
「障害は個性」論が生んだ誤解
「障害は個性」という言葉がひとり歩きを始めたらどうなるか、考えてみましょう。
「障害は個性。だから出来ないことを障害のせいにするな」
「障害は個性。だからあなたを手助けする気はない。」
「障害は個性。だからあなたが困っているなんて認めない。」
「障害は個性。だからあなたは甘えている。」
「障害は個性なんだから、育てる大変さは普通の子と同じでしょ?」
こんな風になったら、当事者が1番困ると思いませんか?
というか、すでにこの状況は各地で発生しているようです。
「障害は個性」論の被害者
「個性だから支援はいらない」
という誤解が蔓延しても、外から分かりやすい障害の方はまだ助けてもらえることもあるでしょう。
身体障害の方などは特に、見るからに介助が必要な場合も多いからです。
しかし、発達障害も含め、外から分かりにくい障害の場合はどうでしょう?
ただでさえ困っていると理解してもらいにくい私たちは、
この「障害は個性」という言葉から生まれた誤解によって、周囲から理解されず、支援も受けられない状態になります。
もっと言えば、支援を受けている人(特に子供たち)が、「あの子だけズルい!」と言われてしまい、
最悪の場合は支援を打ち切られるというような状況がさらに加速することすら考えられます。
見えない障害を抱えている私たちが1番割を食うんです。
「障害は個性」
第一印象は耳心地の良い言葉ですが、
この言葉は社会全体に大きな誤解を招くという点で、本当に罪深いと思います。
差別をなくすのは大事だけど
「障害」というのは負のレッテルとして扱われることがあります。私たちは時として、
「コミュ力がないから」
という理由ではなく、
「『障害者』というラベルがついてるから」
という理由で不当な扱いを受けることがあるわけです。
これこそが「差別」です。
でも、この部分だけ見れば、
「周囲の理解さえ得られれば困らない」
ようにも見えますよね?
ですが、周囲の差別さえなくなれば良いのなら、はじめから「障害」という言葉はつきません。
困るからこそ障害なんだ
今の社会では、障害という言葉には余計なイメージがつきすぎています。マイナスにもプラスにもです。
いったん、「障害」という言葉を抜きにして考えてみましょう。
極端に苦手なこと、出来ないことがあると、何かと生活が不便です。
私の場合は、苦手を通り越して「発達障害」として診断されてましたが、普通学級で、障害のことも隠していましたから、いじめられたりもするわけですが、
私が困ったのは周囲からの酷い扱いだけではありませんでした。
こだわりはすぐに強迫的になって苦しみ続けることになり、さらに放っておけば何もできない廃人のようになります。
コミュ障なんて酷いもので、報連相とか絶望的にできないから委員会の仕事ですらマトモにこなせません。
なんなら人と何を話して良いかも話しかけ方も分からないですし、
分からないから友達を遊びに誘うどころか、指示を聞き逃しても学校を休んだ翌日も、誰にも聞くことができないんです。
いくら周りが「個性」として受け入れてくれようが、フッツーに困るんですよ。
そもそも学校だけでもできないことが多すぎて疲労しまくって常に倦怠感抱えてるし、
コンプレックスで病むとか以前の問題で、一次障害の時点で人生ウルトラハードモードなんですよ。
身体に障害のない発達障害であっても、周りがいくら好意的に思ってくれようが普通に生活で困るんです。
困るからこそ障害なんです。
(ちなみに、私の困りごと、大したことないじゃんって思われるかもしれませんが、思い出したらフラッシュバックして大変なのであんまり書けてないだけです。)
自閉症の家族の現実
私には2つ下に妹がいます。
妹は最重度の自閉症で言葉も喋れないし、こだわりの数がとにかく尋常じゃありません。
母はそんな妹のこだわりを満たすためだけに分刻みの予定()をこなし続ける奴隷で、
躾がなってないと世間に後ろ指を刺され、少しでも妹の機嫌を損ねたら叩かれ噛みつかれ、
妹も妹で、こだわりのためだけに、やりたくもないパズルを毎日何十枚もこなしていました。
母はそのパズルを1枚ずつ2階から持っていかないといけなくて、毎日階段を何十往復もしていました。(100いってたかも)
で、妹本人は最終的にこだわりをこなし続けるのが苦しくなって癇癪を起こして頭突きでガラスを割ったりしていました。
私は小学生の頃からこれを毎日見てます。
それを妹が「自閉症だからこそ幸せだった」とか口が裂けても言えません。
苦しいから暴れるんです。頭を叩くんです。
癇癪を起こすほどのストレスを生み出すものを「個性」の一言で片付けるなんて私は許せません。
家族だってみんな犠牲になります。
両親ともに趣味の時間はゼロ。母は働くことも出来ず、私も妹のこだわりで実家出たらダメだったから進路変更。
何より双子の妹 (私は三姉妹です) は最後の最後まで両親にいじめに気付いてもらえず、不登校からのうつ病で10年引きこもりコースです。
これが本当に個性ですか?
何度も言いますが、障害は障害です。
もうとんでもないレベルで困るんですよ。
障害は障害。じゃあどうする
ここまで読んで、
「『障害は個性』とは言わんどこ」
…と、なんとなくでも思っていただけましたでしょうか?
でも、こうも思いますよね。
「じゃあなんて声かければ良いのよ」
そうですよね。今までは何と言うべきか分からなくて、それでも自分なりに言葉を選んできたわけですから、分からなくなるのも当然です。
ですが、皆さんすでにめっちゃ良いところまで来てるんです。
差別する気も全くないし、自分が否定されるかもしれないと分かっていても、こんな記事を最後の方まで読んでくれているわけです。
私は障害を理解してくれる方のことを勝手に「神」と呼んでいますが、
私から見たら皆さんは神の原石なんです。
だから私は、皆さんには期待を込めて、こうお願いしたいのです。
「私に手伝えることはある?」
ひとこと、聞いてみてください。
もうこれだけでかなり良い感じになります。少なくとも私は嬉しいです。
差別する意図も見えないですし、「障害は個性」という言葉のように支援する気はないと突き放された感覚もしません。
ですので、
「私に手伝えることはある?」
この言葉だけ、覚えて帰ってください。
障害者全員が喜ぶ言葉はない
世の中上手くいかないものでして、
大半の当事者は「障害は個性」と言われてモヤりますし、「手伝えることある?」と聞かれると嬉しいんですが、
真逆の当事者もいます。
「手伝えることはある?」と聞かれて怒るタイプの方々もいるのです。
彼らのことは私には良くわかりませんので推測になりますが、
「障害者扱いするな」と言いたいのだと思います。
(人間なので当然ですが、障害者にも本当に色んな人がいます)
おそらく、彼らは障害そのものよりも「差別」に困ることの多かった方たちだと思います。
(困り度の強さに関しては言及を避けます)
半ばトラウマになってしまっている方もおられると思うので、もう誰も悪くないんですが、トラブルは簡単には避けがたいのです。
でもこれ、どこでもそうなんですよね。
アメリカ人全員が喜ぶ言葉がないように、
女性全員が喜ぶ言葉がないように、
障害者全員が喜ぶ言葉なんてありません。
「もうどうすりゃええねん」
って言いたくなると思うんですが、
そもそもですよ、
特に目に見えない障害の場合、
障害者であることを告白する場面って
超センシティブな場面なんですよ。
そりゃ難しいですって…
私にも100%正しいことなんて分からないんですよ。
いや、ここまで自分のお気持ちベラベラ喋っといて何やねんって話ではあると思うんですが、この記事もまた1人の当事者の意見でしかないんですよね。
障害に対して、色んな意見の方がいます。
障害に対して、色んな価値観の方がいます。
だけど、今回皆さんはこの記事を見て、1人の意見を知ってくださりました。
私の意見をそのまま受け入れろと言うつもりは毛頭ありませんが、
少しでも皆さんの「障害観」みたいなものを考え直すきっかけになればと思い、5000文字も書いてしまいました。
皆さんがこれからも「障害」に関心をもち続けてくださると幸いです。
まとめ
「障害は個性」という言葉は、差別を減らすためには一定の役割を果たしますが、障害者に支援は必要ないという風潮が生まれるのではと私は危惧しています。
障害は困ることがあるからこそ障害であって、差別がなくなれば済むという話ではありません。
実際に、「障害は個性」と言われてもモヤモヤする当事者が多いですし、これからは「手伝えることはあるか?」と聞いて欲しいのです。
もちろん障害者の中には「障害者扱いするな!」と言って怒る方も稀にいると思います。
人間には多様性がありますから、障害者全員を喜ばせる言葉はありません。
だからこそ「障害とは何か」と当事者以外も考え続ける必要があるのだと私は思います。
皆さんが今、この記事に関心を持ってくれたように、これからも障害について、少しでもアンテナを張って生活していただけると幸いです。
今回はここまで!
自己紹介をします。
普段は、得意の読書を活かして、あの手この手で日本一を目指す日記を書いています。
ジャンルはとある表現スポーツ。
過去、日本一もあと一歩という時に、大好きだった競技がトラウマ化&うつ病発症し、今はブランク6年目です。
今だって練習もできなければ、競技の名前を口に出すこともできない状態で、再開することすら難しい状況です。
それでも悲願だった日本一が頭から離れず、覚悟を決めてもう一度、でっかい夢を見ることにしました。
もし私に興味を持っていただけた方がおられましたら、ぜひ自己紹介記事だけでも見ていって下さい。
さて、本当に長々とお読みいただき、ありがとうございました。
もし、ここまで読んで
「まあ良かったよ」
「なんか頑張ってるなぁ」
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それでは、本日もありがとうございました!!
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