No.0 ブレーメンの音楽隊の逆襲、南海遊の誕生
こんばんは、小説家の南海遊(みなみ・あそゔ)です。
半ば思いつきでnoteを始めました。「冷やし中華始めました」的な軽い気持ちで始めました。「へぇ、冷やし中華なんて始めたんだ、冬なのに頭のおかしい奴がいたものだ」的な軽い気持ちで読んでくれると嬉しいです。
コンテンツ的には一応、作家の端くれということで、『物語』についてのアレコレを気まぐれに書いていこうかと思います。
毒にも薬にもならない内容を書いていくつもりですが、万が一、毒入りの冷やし中華が出てきてしまったらごめんなさい。そのときは諦めて食中毒になってください。
薬が出てくる可能性も辛うじてありますが、それはプラシーボ効果です、やっぱり諦めて食中毒になってください。
つまるところ、毒を喰らわば皿までのお覚悟でお読みいただけると之幸いです。大丈夫です、きっと身体に悪くない毒です。知らんけど。
閑話休題。
第0回ということで、今回は自己紹介も兼ねまして、私がいったい人生の何を間違って小説家なぞという仕事(少なくとも紙の本を出版してお金を頂いておりますので、ギリギリそう呼称して良いかと思います)に就いてしまったのか、を書こうかなと思います。
小説家の製造方法に興味のない方にとっては退屈な内容かもしれません。NetflixかAmazonプライムで海外ドラマも再生していた方が人生的にまだ有意義かと思います。
ただ、今まさに小説家を目指している方々、或いは小説家に「なってしまった」方々に対しては、何かしらの教訓をご提供できるかもしれません。
この記事は極めて個人的で局所的な、一人の作家の「これまで」のハートフルなお話です。(大嘘)
さて。
あらゆる物語に共通するように、この話も「昔々」から始まります。
昔々、私が生まれて初めて自力で読んだ本は、忘れもしないグリム童話の『ブレーメンの音楽隊』でした。
たしか自分で平仮名を読めるようになったのは、四歳か五歳の頃だったと思います。思えば、その頃から私は『物語』というものが大好きでした。
私が物語を作る側の人間になりたい、という夢を最初に持ったのは、小学一年生のときのこと。
きっかけはコナン・ドイルの児童書版『まだらの紐』を読んだことでした。
当時から何かにつけてハマりっぽい性格だったらしく、私はすぐにシャーロック・ホームズの作品をすべて読破していました。
中学に上がってからは、友人からライトノベルというジャンルを紹介されました。
私は薦められるがままに『ラグナロク』や『キノの旅』、『ブギ―ポップは笑わない』などに夢中になりました。
たぶんこのころから、実際に自分も小説を書いてみたい、と思うようになったんだと思います。
高校に上がってすぐ、私はライトノベルの執筆に取り掛かりました。
書いたのは、まさに厨二病ど真ん中のような異能バトルもの。
もう、今読み返したら恥ずかしくて死にたくなるような話ですが、若かりし頃の私は、それを集英社のジャンプ小説大賞に応募しました。
結果は一次選考通過、二次選考落選。
賞は取れませんでしたが、一次選考を通過したときに、週刊少年ジャンプに私の名前が載りました。
そのときの嬉しさを、おそらく私は一生忘れることは無いでしょう。
誰かが読んでくれた、誰かがこれを(少なくとも最初の選考を通すくらいには)認めてくれた。
それは、魂が震えるほどに嬉しいことでした。
そこから、私は馬車馬のような勢いで本を読み始めました。
自分にはとにかく、小説の作法の全てが足りない。
優れた作品を読んで、まずはそのエッセンスを自分に取り込まないと。そんな焦燥がありました。
私はそれ以降、様々な小説に手を出すようになりました。
村上春樹氏に強い影響を受け、そんな氏に影響を与えたあらゆる海外作家の本を片っ端から読破しました。
それはまるで、砂漠を歩く遭難者が、辿り着いた泉の水を貪欲に飲み干していくかのように。
スコット・フィツジェラルド、レイモンド・カーヴァ―、J・D・サリンジャー、ドストエフスキー、ジャック・ケルアック、レイモンド・チャンドラー……。
そんな先人たちの文章がやがて私の中に流れ込み、新しい私を形作り始めたことが分かりました。
当時十六歳の価値観は目まぐるしく反転し、論理は悉く矛盾を繰り返し、物語は私に現実を忘れさせました。
しかし、私は最初の一作以来、一遍の小説も書き上げることが出来ませんでした。
理由はいくつかありますが、一番の原因は私の高校生活にありました。
私の高校時代というのは、控え目な言葉で言っても犬の糞のような時代でした。
あの時代、私の周りの人々は誰もが(学生のみならず教職員までもが)自分がその世界の主人公だと思い疑っていませんでした。
自分が正しく、揺るぎの無い、恒久的な存在であると誰もが信じていました。
故に、振りかざされる論理の殆どは(私から見れば)客観性が欠けていて、ひとつとして誰かを救うものはありませんでした。
それは結果として、私を憔悴させ、疲弊させ、損ないました。
私はそんな他人のエゴイズムに耐え切れず、いつからか口を閉ざしました。
ニーチェの「私は彼らに喋り語るための口ではない」という言葉を、何度も頭の中で繰り返しながら。
故に友人と呼べるべき存在は一人もいませんでした。
私はフラニー・グラースやホールデン・コールフィールドにのみ心を許しました。
それでも、私は黙々と文章だけは書き続けました。
しかし、それは既に「小説」という形ではありませんでした。
それは単に、私の殺意のような憤りが延々と続く、ただの文字の羅列でした。
それでも私はやめられませんでした。
書かなければ、吐き出さなければ、私はおそらくどんどん膨張していって、最後は脳漿もハラワタもぶちまけて破裂してしまう。
その前に書き切らなくては。あいつらを否定しなくては。あいつらを根絶やしにしなくては。
もっと美しい言葉を、もっと鋭い言葉を、もっと正しい言葉を。
―――しかし、それらすべてを無理矢理に押し込んで、一つの文章を書き上げたとき、そこに私の言いたいことは何一つ書かれていませんでした。
それはただ、然るべき意味を強引に剥ぎ取られた、ただの単語の羅列でしかありませんでした。
たぶん、問題の大部分は私の方にあったんだと思います。
私の世界観は狭量で、私の人生観は未熟で、私の青春は稚拙でした。
そう、あの頃の私は、まさにゼロ年代の権化でした。
そんな風にして、十八歳を迎えた私は、生れ故郷を離れ、大学に進学しました。
あの街を離れたとき、私は心の底から安心しました。「ああ、もう俺は文章を書かなくていいんだ」と思いました。
高校時代に得た教訓は二つあります。
「小説は人を孤独にする」
「忘却は救済である」
創作を辞めてからというもの、私には新たな友人たちが出来ました。
人生の夏休み、という俗称に違わず、緩やかな大学生活は私に余裕を与えてくれました。
他人と馬鹿話が出来るようになりましたし、他人を(ある程度は)赦すことが出来るようにもなりました。
軽音楽部に入って音楽を楽しんだり、アルバイトをして自立的な生活を営むことができるようになりました。その過程で、他人との距離を測る意味を理解できるようになりました。
そして何より、再び純粋に小説を楽しめるようになりました。
それは私にとってとても幸福なことでした。
当時の新本格、セカイ系といった、いわゆるメフィスト世代とも呼ばれるゼロ年代のミームを共有できたことは、その後の私の生き方にとって非常に重要なことでした。
やがて私の文章の刃は錆び付き、砕け散り、その破片は時間と忘却の彼方へと吹き去って行きました。
私は紫煙を吹きながら、「まぁ、いいか」と軽く笑っていました。
少し寂しい気もしたけれど、これでいいんだ、とも思いました。
大学を卒業し、社会に出て、それなりの艱難辛苦を味わいつつも、休日は陽のあたる場所で文庫本の頁を捲り、懐かしい想い出を振り返る。
恋人とそろそろ結婚でもしようか、という話をしながら、子供の名前を考える。
そんな後日談のような幸福に私は納得し、そんな現状を受け入れました。
そうです、ブレーメンの音楽隊は、結局最後はブレーメンには辿り着かず、道中に見つけた家に住んで、仲良く幸せに暮らしたのです。
―――それなのに。
十五年の時を置いて、私は何故か再び筆を取りました。
一度諦めたブレーメンを目指し、私は原稿用紙一〇〇〇枚にも及ぶ長い長い旅に出たのです。
何故、今さら?
私はあの結末に納得した筈でした。受け入れた筈でした。あの話は終わったんだ、と。だからこれは、ここから先は、きっと死ぬまで続く後日談なのだと。
しかし、それは勘違いでした。後日談なんかじゃありませんでした。沈黙の十五年間にも、私の中で本編は動いていたのです。
その本編がこの世界に生まれたきっかけは、たぶん、2011年3月11日だったのだと思います。
街の灯りが消え、水道が止まり、物流が止まったあの数日間。
私は盛岡の片隅で、エンプティランプの灯る車の中に閉じこもり、唯一の情報源であるラジオにずっと耳を傾けておりました。
流れてくる非現実的な死者の数字に、世界がぐにゃぐにゃと歪んでいく感覚を覚えました。
そんな中、私は仕事で使っていたモバイルワープロのポメラを使って、ステレオから流れるそのか細い情報をひたすら文字に起こし続けました。
他にやるべきことが無かったのです。大学を卒業したばかりの若造には、そのとき何も出来ませんでした。私に出来たのは、ただただキーボードを叩くことだけでした。
私は冷たい三月の暗闇の中で、増え続ける死者の数をただひたすらに文章に書き続けました。
リスナーから呼びかけられた行方不明者の名前を記録し続けました。
悴む指は感覚を失い、臓腑の奥底に不快な熱量がこみ上げました。
様々な絶望や焦燥が、無機質な文章の形となって私の中を通り抜けていく感覚がありました。
街に電気が戻り、報道が流れ始め、ライフラインが復旧した後で、私はその文章を読み返してみました。
そこでは何千人を超える人々が亡くなり、何百人もの人々が大切な人の安否を気遣う痛々しい言葉が並んでいました。壊滅する町の様子が刻まれていました。
そして何より、それはフィクションではありませんでした。
この世界で確実に起きた、現実そのものの文章でした。
綴られた文字には一片たりとも救いがありませんでした。
どれだけ足掻いてもハッピーエンドに到達できない文章でした。
そしてそれは、間違いなく『この私が書いた文章』でした。
それを読んだとき、私の中に懐かしい感情がよみがえったのです。
それは、あの十代の頃に抱いていた反骨心、反逆心に似ていました。
つまり、言葉にすればこういうことでした。
『この文章は反論の余地も無い現実だけれど』
『私は此処に反論をしなければならない。』
それは今まで解けなかった数式が呆気なく解けてしまったような、そんな奇妙な感覚でした。
十代の頃の私が、半ば恨み節で身につけた文章で、今度は「救いのあるもの」を書こう、と思いました。自己正当化ではなく、打算でもなく、自分の理想に、これまで生きてきた人生に、今度こそ正直に書こう、と。
自分がどんな物語に救われたのか、どんな物語ならば「君」を救えるのか。
印象に残る文章のリズムについて。
本当に必要な情報の取捨選択について。
読み手が退屈しない構造について。
そして何より、「面白さ」を生み出すことについて、私は自分が持ち得るすべての経験を総動員して取り組みました。
それは言うなれば、この現実と、私の理想との一騎打ちでした。
三年間、私はその作業に没頭しました。仕事をしながらだったので、かなり長い時間がかかってしまいました。
三年間。長い、長い旅路でした。
そしてその旅路の果てに、私はようやく、かつて恋い焦がれたあのブレーメンに辿り着いたのです。
それが、私の賜った星海社FICTIONS新人賞という小説大賞でした。
奇しくもそれは、私が最も純粋に小説というものを楽しんだ『メフィスト』の系譜たるレーベルでした。
そして十代の頃、打ちひしがれながら、泣きじゃくりながら、心が張り裂けそうなほどに切望した栄光でした。
再び私を呼び起こしたあの衝動は、たぶん、ヒロイズムや承認欲求や自己犠牲といったウェットなものよりも、もっとずっと攻撃的で、もっとずっとソリッドなものだったのだと思います。
私は性格が悪いのだと思います。
ストレスが大嫌いなのだと思います。
敗北が大嫌いなのだと思います。
だからこそ、私はハッピーエンドでない物語を見ると、意地でもハッピーエンドに書き換えてやりたくなるのだと思います。
だからこそブレーメンの音楽隊は再び結集し、住み慣れた家を発って逆襲の狼煙を上げたのです。
ーーそんな風にして、一度諦めたその男は、小説家になったのでした。
さて。
そんなわけで。
私の執筆の原動力ははっきり言って『憎悪』なのだと思うのです。
生きていれば色んな『憎しみ』が湧いてきます。
他人に対して、悪意に対して、世界に対して。
私は何よりも『悲劇』に対して『憎悪』を抱きました。
『憎悪』が無くなったとき、きっと私は物語を書くことを辞めるのでしょう。ただ、残念ながら(幸いなことに?)私はまだ物語を書けそうな確信があります。それが幸せなことなのか、不幸なことなのかは分からないけれど。
これから先も本を出せるかどうかは分からないけれど、とりあえず私はまだ『小説書き』でいることは出来そうです。
……以上、小説家・南海遊の製造方法でした。
想像以上に糞長くなってしまいました。
本当はこれ、『傭兵と小説家』のあとがきに入れるはずの文章でした。
あまりにもパーソナルすぎるな、ということで自主ボツにしたんですが、とりあえずこういう自由な文筆の場で供養できてよかったです。(自己満足)
ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
毒になりましたでしょうか、それとも薬になりましたでしょうか。
そんな感じで『南海遊のゼロ距離射劇』、だらだらと気まぐれに更新していきますので、お暇なときにでも流し読みしていただけると嬉しいです。
では、今夜はこの辺で。