鹽竈を再現したという源融さんの邸宅
六条とか七条とか、鴨川の水を引いて庭園にしていたそうですけどね、
清和帝の時に、貞観の大地震、鹽竈なども被災してしまう、大津波で
多くの人々が波に飲まれてしまう。
清和帝は、19才の時でした。
貞観11年5月26日
西暦では、869年7月9日
陸奥方面は大地震で大津波です。
災害など争乱など、疫病など、みな天皇の設えのわろし、であるので
清和帝はきっと総統に苦悩をしたのではないかと思われますよ
しかも傀儡木偶のように御爺さんの藤原の方(藤原良房さんは祖父)に操作されているようですしね
30歳で御隠れあそばせた、水尾帝、
いろいろな事件災害があるのですし、弔いますね、
そこで放生会もあるのです
償い
埋め合わせ
小さな生き物を河とか海に放つ
事をしている
塩竈の海を想起するのは、その多賀城府のある界隈なのですし
塩竃の八重の桜も有名だし、小島があって、男女の神の居住まいがあるし
自然災害が相次いだ貞観時代 東日本大震災は1200年は無理でも100年は災害を忘れないための工夫を(饒村曜) - エキスパート - Yahoo!ニュース
以上の記事から以下参照
『災害が相次いだ清和天皇の御世
天安3年4月15 日(859年5月20 日)に清和天皇が即位し、元号が貞観と変わりますが、この貞観時代は自然災害が相次いでいます。
平安京(京都)は、京の東を鴨川(現在の賀茂川)が、京の西を桂川が流れている都です。
このため、都ができたときから両河川に対する洪水対策が重要な課題となっており、防鴨河使という役所が置かれたこともあります。
「日本三代実録」によると、貞観2年9月14~15日(860年10月6~7日)には、台風が襲来して大風が吹き、桂川と鴨川がともに氾濫して東西交通がマヒしています。
また、大阪湾で高潮が発生し、広い範囲で人や家畜に被害がでています。
そして、貞観6年(864年)から始まった富士山大噴火では、北西山腹からの噴火で流れでた溶岩が青木ケ原を作り、「せのうみ」と呼ばれた湖を、精進湖と西湖に二分しています。
貞観11年(869年)は貞観地震・津波があり、貞観13年(871年)は、出羽(山形県)の鳥海山大噴火です。
さらに、貞観13年閏8月7~13日(871年9月28日~10月2日)は、平安京で雷を伴った大雨が降って橋を流し、庶民の家が、その数がわからないほど壊れ、その後も雨が続き、7日後には再び河川が氾溢しています。
「日本三代実録」によると「朱雀大路の東側 (左京)で35家138人、西側(右京)で630家3995人の被災者」がでています。
ここで、被災者数が記録されているのは、朝廷が食料や塩を配っているからです。
これほどの自然災害が相次いだ貞観時代ですが、ちょっとしたことで改元が行われていた時代に、貞観という元号は、清和天皇が皇子の陽成天皇に譲位するまでの19年続いています。
清和天皇の御世は「貞観の治」といわれています。
もともと、この言葉は、中国唐の第2代皇帝太宗の治世(627年から649年で元号は貞観)をさす言葉で、中国史上最も良く国内が治まり、後世から理想時代とされています。
このことは、自然災害が相次いだものの、政府と人民が協力して災害に立ち向かい、政治が安定していたことの反映と思います。
災害を忘れないための工夫
昔から、大きな災害が発生すると、そのときの教訓を後世に残そうという様々な試みが行われます。
東日本大震災のあと、貞観地震・津波のときの石碑が残っているとかの話が出てきましたが、1000年も経過すると、何のための石碑かということが分からなくなっています。
風雨にさらされて読みにくくなっており、かろうじて読んだとしても、こんな山奥まで津波がくるなんて考えられないという感覚です。
当然のことながら、防災には結びつきませんでした。
貞観地震・津波は当時の人々にとって大変な出来事で、しばらくははっきりした形で伝承されてきました。
百人一首に「契りきな かたみに袖を 絞りつつ 末の松山 浪こさじとは」という和歌があります。
「涙を流しながら貞観地震津波で浪が押し寄せてきても波が越えなかった末の松山のように、二人の愛は変わらないと誓ったのにあなたは心変わりした」という意味で、清少納言の父、清原元輔が作った失恋の歌です。
この「末の松山」は現在の多賀城市の末松山宝国寺の裏にある小山で、貞観地震津波で近くまで津波が押し寄せましたが、浪が越えなかったということで有名でした。
平安時代は貞観地震津波が伝承されており、多くの文化人が「末の松山」というだけで巨大津波を思い出し、付近まで旅した都の人は足を延ばして訪問しています。
しかし、内陸部にあって海とは関係がなさそうな「末の松山」は、次第に忘れられていきますが、松尾芭蕉は「末の松山」まで足をのばして訪問しています。
月日は流れ、東日本大震災の巨大津波は、多賀城市に再び襲来しましたが、「末の松山」を津波が超えることはありませんでした。
また、京都の有名な祭りに祇園祭があります。
非業の死者の霊を鎮め神として祀ることで霊は鎮護の神となる考え方が御霊信仰で、そのため行うのが御霊会です。
当時流行した疫病退散を祈願するため、貞観5年(863年)に始まったとされますが、山鉾巡行が始まったのは貞観11年(869年)、貞観地震・津波の年からです。
貞観地震・津波のニュースがいつ京都に伝わったのかわかりませんが、律令体制で駅伝の制が頭著な発達をしていた時代ですので、地震発生の約10日後の6月7日には第一報が都に伝わっていたのではないかと思います。
というのは、勅命により全国の国の数と同じ66本の矛をたてたのが、この6月7日で、洛中の男児が御輿を奉じて内裏裏の神泉園に集まり、御霊会を修して除疫を祈ったのが勅命7日後の6月14日です。
そして、国の数と同じ66本の矛に悪霊を移し、この矛をたてて祇園社から御輿を出したというのが、祇園祭りの最初の山鉾巡業です。
つまり、貞観11年(869年)の御霊会が事実上の祇園祭の起源とされ、令和元年(2019年)には、祭の1150周年が祝われています。
しかし、東日本大震災が発生するまでは、貞観地震・津波のようなことが起きることは信じられなくなったことから、祭りの起源としては認識されていませんでした。
祇園祭そのものは伝承されていますので、起源まで伝承されていたら、1000年以上も災害の教訓が伝承されたことになります。
なお、律令制における国の数は、分国と統合が繰り返されてきましたが、弘仁4年(813年)の加賀国設置を最後に、66国2島(壱岐島、対馬島)となり、明治維新まで変わることはありませんでした。
100年後まで忘れない工夫
貞観地震・津波の教訓のように、1000年以上も災害の教訓を伝承するというのは、非常に難しいことですが、100年後まで忘れない特別の工夫には、役だった例が僅かですがあります。
その一つが、明治29年(1896年)6月15日に発生し、約2万2000人が死亡した明治三陸地震の伝承です。・・・。』