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骨壺 3

2004年に起きたマグニチュード6.8の直下型地震で、祖母の家はかなり揺れたらしい。無事を確認すべく、わたしは、生後8ヶ月の二人目を小脇に抱えながら、ニューヨークから祖母に電話した。泊まりで様子を見に来ていたとみられる近居の叔母が電話をとった。全員の無事と、そのエリアは揺れた以外には特に何もなかったことを確認した後、祖母の様子を尋ねると、叔母は、呆れたように「真っ先に、すごい勢いで外に飛び出そうとすっけさ、慌てて止めたんて」。

何十年にもわたり繰り返してきた、「おれぁ、来年の今頃生きてっかの・・」だの、「誰それの〇〇姿は、見らんねかもしんねーのぉ」などの諦観したような決まり文句と、助かろうと着の身着のまま屋外へ飛び出すその素早い身のこなしとの落差は、その後何年も身内のネタとなり、家族に「死ぬ死ぬ詐欺」と揶揄されたりもした。ちょうど、日本で「オレオレ詐欺」が社会問題になっていた頃だ。

私が保育園に通っていた頃は、「遊子がランドセルかつぐの、見られっかのぉ」と遠い目をしてみせ、無事入学の報告へ訪れれば、「ほーんね、ありがてえことでさ。ほいでも、あと何年、桜見られっかのお」となり、それが、「中学の制服」「高校入学」、そして「大学生になる頃には、おれぁ、もうこの世にいねぇろうの」と変遷していった。前出の地震のエピソードは、わたしの大学進学から、実に12年後である。

その地震から、さらに10年後の2014年。祖母は(たしか)97歳でこの世を去った。その夏、ニューヨークに住むひ孫たちと、越後平野を一望する介護施設で3年ぶりに再会してから数ヶ月後のことだった。うつらうつらとしながら、でも満足げに微笑みながら、わたしの子供たちに手を握られていたのが思い出される。子供たちも、これが最後と自覚していたのだろう。息子は早々に部屋の外に「散歩しに」行き、娘はポロポロと無言で涙を流していた。

生涯独身だった叔父が、50代半ばで体を壊し、会社を遺して早死にしてからは、90過ぎまで一人暮らしだった。痴呆が進みホームに入ったが、働き者の頑健な体と無茶な冒険心は健在だったため、よく、短時間で驚くほど遠くまで徒歩で遠征しては、ホームの職員に連れ戻されていた。たまに、警官に保護されることもあったらしい。連れ戻されるたびに、独り愛で尽くしてきた越後平野の素晴らしさを、長々語っていたという。「おれほどの幸せもんは、いねこって。ほーんね、どんな金持ちでも、この景色ばっかしぁ、手にはいんねこんだて」。

他界する一年前に、転倒して大腿骨を骨折し、術後しばらく身動きが取れなくなったのを境に、一気に寝たきりとなり、痴呆はさらに進み、ついに元の生活に戻ることはなかった。一日中ベッドの上で無表情だったり、ニコニコしたり、あるいは稀に夜驚症のような言動に及んだりしながら、着実に死に近づいていた。

彼女は、わたしの二人の子供に、5回会っている。小学校に上がると、彼らは少しだけ、祖母を敬遠するようになった。痴呆がはじまり、同じことを何度も聞き、気がつけば無言でニッタリとこちらを眺めている小さな老婆を、薄気味悪く感じるのも無理はなかった。我が子らに十分共感はできたものの、食卓を囲む際や旅行の最中など、わたしは、彼らをずっと祖母の隣に座らせた。帰省するたび、これが最後かもと意識していたのもあるが、それ以上に、掛け値なしの「老い」と「死」を、目の当たりにして欲しかったからである。故郷を離れて暮らすシングルマザーのわたしに育てられている彼らには、親戚、特に、年寄りが身近にいない。よって、生老病死の様々なステージにいる身内が身近にいる子供たちに比べ、老いも死も遠い。この点が、わたしには、自分の子供たちが年齢相応の成熟度や社会性を身につける上での障壁に感じられたのである。よって、老いつつあるどころか、すでに死につつある祖母は、子供たちに、何かこう、現実的な死生観を育ませる糸口に見えたのだ。

最後にホームのベッドで握った祖母の手は、肌も爪もすべすべで、色艶もとてもよかった。それが、働き者だった祖母の(わたしの知りえない)苦労を、少しは飲みくだしやすい美談にしてくれているようで、わたしは幾分安堵した。なめらかな肌ではあったが、しかし、その大きく分厚い骨太の手は、農家に育ち、商家に嫁ぎ、人生のかなり早い段階で、楽をするということを断念して生きてきた人間のそれだった。

2019年夏の帰省は、お盆にかかっていたため、子供たちも一緒に祖母の墓を参った。墓石の下段が小さな引き戸になっていて、開けると白い陶の骨壺が並んでいる。祖母の壺は、晩年いろんな薬を服用していた祖父のそれよりも、そして、幼少期体の弱かった叔父のよりも、はるかに大きく、それがわたしを何とも痛快な気分にさせた。

-終-

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