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ミケラちゃん 3

3本足の謎が一つ一つ解明されていくにつれ、私たちは、だんだんとその特異性にも、非日常性にも、神秘性にも慣れていった。ミケラちゃんの足は、タブーではなくなったのだ。それは、例えば、体の前に突き出た足のせいで跳び箱が飛びにくそうなことや、行進のとき、「左、右、左、右・・・」の二拍子にやや窮屈そうに合わせている様子などを、無遠慮にからかう生徒が出てきたことなどによく表れていた。

そうした悪ふざけにも、ミケラちゃんはニコニコしながら、「そうだよねえ」などと呑気に構えていた。そんな彼女の大らかさは、絶対的な「余裕」として私の目には映った。そして、その「余裕」は、私に確信させた。二本足が進化して、三本足になったに違いない、と。喩えていうなら、猿と人間。猿ができることで、人間には真似のできないことはたくさんあれど、だからと言って、それで人間が猿に対して劣等感を抱いていじけることなどない。それと一緒で、ミケラちゃんの余裕は、自分が2本足の私たちより進んでいるという自覚からくるものに違いない。絶対そうだ。

2本足でしかないわたしたちを、どこかで哀れんでいるから、ミケラちゃんはあんなに余裕でいられるのだ。

その結論は、あの日自覚してしまった自分の残酷さに対する罪悪感を、劇的に和らげてくれた。そのせいもあってか、わたしは、あの「トイレ事件」の後も、積極的にミケラちゃんと仲良くしていられた。

「足癖はねえ、特に厳しくしつけられたの」

ある時、ミケラちゃんは言った。

「アシグセ?」

「うん。きちんと座ったり、きれいに歩いたりするための、足の使い方みたいなものかな」

「ふーん」

「わたしが育った村では、どこの家でも、子供の足の躾は厳しかったよ。」

「ふーん。小さい子に、ご飯をこぼさないで食べるように教えるようなもの?」

「うん、まあ、そうだね」

ミケラちゃんの生まれ育った村が、全員3本足だと聞いてから、改めて合点がいくことがあった。

例えば、ミケラちゃんは、「転ぶ」という言葉を知らなかった。本などで、そういう単語を目にしたような覚えはあるらしい。けど、自分で「転ぶ」とか、身近にいる3本足の誰かが転ぶのを見たという体験をしたことはないというのだ。

映画などで「人が転ぶところを見たことならあるよ」と彼女は言う。が、いかんせん、実体験ではないので、転ぶ直前の「あ!」という心境や、転んだ衝撃や、転んだ直後の痛みなどには、いまひとつ共感できていないらしい。だからだろう。ミケラちゃんは、よく「転ぶ」と「転がる」を混同していた。「ボールが転んできた」とか、「小さい子が転がって泣いてた」とか、よくそんな言い間違いをしていた。

「3本足だとやっぱり安定するの?」

思いつくままに尋ねるわたしに、ミケラちゃんは、いつも微笑みながら、答えにならない答えを返した。

「んー、2本足になったことないからねー。転ばないのが、足が3本だからかどうかは、わかんないなー」

逆に、ミケラちゃんに不思議がられることもあった。

「足が2本しかないのに、よくそんなに走ったりできるね。怖くないのかなって、いっつも思うよ。すごく不安定なのに、みんな、わたしよりずっと足が速いのも不思議」

「そうだね。犬は足4本で、走るのすっごく速いのにね。なんで3本だと2本より遅くなっちゃうんだろね」

二人の会話はいつもわからないことだらけだった。お互い分かり合えないからこその、相手への期待のない、平穏な会話だった。そんな、平和で無責任で優しい二人の時間が、わたしは大好きだった。

「家の人も、前住んでた村の人たちも、本当に誰も転ばないの?」

「うーん、見たことないなー。あ、でも小さい時、傘さして歩いてて、強い風に傘ごと吹き飛ばされて、お尻から落ちたことならあるよ」

「ははは。尻もちついたんだ。漫画みたいだね」

「シリモチ?」

「あ、尻もち知らないのか。そっかー。転ばないんだもんね。尻もちはね、お尻から、デンッて地面に着地すること」

「ふーん」

「なんでモチっていうのかっていうと・・・よくわかんない。また今度ね」

ミケラちゃんは、4年生の終わりに、また転校していった。自分と同じ3本足の人たちのいる集落に戻ったのか、それとも、また別の町へ行ったのか、それを彼女に聞いたかどうかすらよく覚えていない。けど、別れを前にして、ミケラちゃんはやっぱり穏やかだったのだけは、覚えている。最後の日の放課後、「元気でね」「また遊びに来てね」「手紙かくね」「絶対また会おうね」、そう言って、涙ぐんで彼女を取り巻く女子たちに、いつものお行儀のいい笑顔で、「そうだねえ」とゆったり、他人事のように答えていた。

あんなに仲良しだったのにもかかわらず、はっきり言って、ミケラちゃんという子が実在したのかどうか、わたしにはよく分からなくなることがある。ミケラちゃんという名前だったのかすら怪しく感じることもある。クラスの女子も、時々同じような感覚に陥るらしい。あの後、中学も高校もわたしと一緒だった女子と、何度かミケラちゃんの話になり、全員が「やっぱり、本当にいたんだよねえ」なんて安堵したことが数回あったので、ミケラちゃんは、やっぱり本当にいたのだ。そして、「トイレ事件」のあの日、わたしの意地の悪さを隅々まで映し出して濁った色に焦げ付いたあの空も、あの時ちゃんとあそこにあったのだ。

ミケラちゃんの記憶を疑いたくなる理由は、いくつか思いつく。まず、彼女の身体的特徴があまりにも非現実的だったということ。ミケラちゃんが、自分と同じく3本足だと説明していた彼女の家族を、誰も一度も見ていないこと。そして、その後の消息を誰も知らないということ。しかし、最大の理由は、私たちが彼女と一緒に卒業式も入学式も通り抜けていないことのような気がする。何かを終わらせて次の新しい段階に入る、成長という文脈の句読点を共有していないのだ。だから、彼女の存在は、その懐かしさと愛おしさに反して、とても淡くて危うい。ある秋の朝に突如転校生として現れ、約1年半後、新緑を待たずに消えてしまった。

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今、私は、生まれて初めて、自分が育った小さな集落から出て、遠い都会で大学に通おうとしている。これから新しい生活が始まることに、それほど不安は感じない。多分、ミケラちゃんのおかげだ。彼女に出会ったことで、「予想外」とか「未知」とかいう現象に対して、かなりの耐性が培われたと思っている。

ところで、これはなんだろう。

視力(右:   左:  )

「視力」はわかる。しかし、「右」「左」とは、どういう意味だ?

この世には、目が二つある種族がいたりするんだろうか?

まさか!

あの3本足に進化したミケラちゃんですら、目は普通に一つだった。目が二つなんて、もし実在するとしたら、何千年も先に進んだ種族に違いない。

いや・・・。そもそも、目が二つあることの利点なんかあるのだろうか?あっちとこっちのテレビを同時に観ているようなものに違いない。気が散って人と話したりも出来ない。集中して本も読めないではないか。それに、危なくて歩けたもんじゃない。視点が定まらなくて、泥酔してるような感覚かもしれない。もし、本当に目が二つある種族がいたら、その村では、誰も、立ったり、歩いたり、読んだり、見つめたりしなくていいように暮らしてるに違いない。余計なものを足してわざわざ不便で危険にするなんて、それは退化だ。

あ、もうこんな時間。

さてと。健康診断の予約を入れなきゃ。

ー終ー

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