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ミケラちゃん 1
遠くの街の大学に行くことになった。
合格通知を確認した後、ひとしきりはしゃいだが、その数日後に送られてきた入学手続きの書類の入った封筒の分厚さは、卒業と合格と進学が合わさったお祭り気分ですら、一瞬、気圧されてしまうほどだった。しかし、すぐに、その封筒にある書類の一枚一枚こそが、歓喜を現実たらしめているということを実感し、そうなると、今度は、合格通知を開封した直後の瞬発的でヒステリックな興奮とは違った、重厚な感動が内臓を振動させた。
そうか、わたし、この村を出るんだ。
そうした高揚を少し鎮めることを無意識が要求したのか、あるいは、むしろ快感を増幅させるためか、理由はよく分からないが、私は今、封筒から出した書類に一通り目を通している。
今、手にしているのは、健康診断の書類だ。医師に記入してもらう項目が何十とある。いや、100以上だ。身長や体重などの欄、血液検査か何かの結果を記入するのであろう、見慣れない単位が記されている欄、さらには、何の検査なのか推測すらできないような記入欄もある。しばらく眺めていたが、そのうち、読み方すら分からない単位を目でなぞっていても、無為に時間が過ぎていくだけだと気づき、書類をそろそろと封筒に戻し始めた。端を揃えた紙の束が茶封筒に吸い込まれる直前、私の視線は馴染みのある単語を一瞬撫でた。
視力(右: 左: )
そこで、私は顔をあげた。
ミケラちゃんのことを、また思い出したからだ。
ミケラちゃん−−−。
小学校時代、一番仲のよかった女の子だ。彼女のことは、節目節目で思い出してきた。席替え、クラス替え、終業式、新学年----。そして、今、大学進学という、これまでで最大の環境の変化を目前にして、やはり彼女のことが懐かしく思い出される。
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ミケラちゃんは、小学校3年生の秋、転校生として私のクラスにやってきた。強烈な個性のある子で、クラス中は山奥の湖面のように静まり返り、先生の紹介も全く耳に入らず、ただただ全員が息を詰めて彼女を凝視していた。
ミケラちゃんには、足が3本あったのだ。
へその下あたりから、前方へ伸びた足。そして、私たちと同じく左右対象に生えていると見られる後方の2本の足。その3本に、カメラが三脚に乗るように体重が均等に分散していて、やや前傾気味の姿勢でミケラちゃんは立っていた。みんなの前で自己紹介をしたのかもしれないが、内容なんて全然覚えてない。けれど、彼女のニコニコ顔だけははっきりと記憶に残っているので、やはり簡単な挨拶くらいはしたのだろう。小学生の私たちを、一瞬で仮死状態にまでフリーズさせるほどのインパクトの一方で、それ以外は、私たちと違うところは特になさそうだったのも、3本足の異様さをむしろ増長させていたと思う。
ミケラちゃんは、やや身長が低めで、とっても穏やにニコニコしていたため、すぐに友達ができた。その日はまず、活発な女の子たちが、教科書を貸したりして世話を焼き始めた。数日後には、おしゃべりな女の子らが、どこに住んでいるのかとか、可愛い文房具をどこで買ったのかとか、根掘り葉掘り聞き出し始めた。そのまた数日後には、目立ちたがり屋の男の子が、ミケラちゃんの上品な佇まいを、粗野な言葉で揶揄することで、彼女ににじり寄っていた。内気で人見知りな私は、そんな後続集団が形作る輪に紛れて、彼女を観察していた。
でも、どんなに盛り上がっても、まだ誰もミケラちゃんの足には一言も触れていなかった。みんな、精一杯、見て見ぬ振りを装いつつ、でも、彼女がこちらを見ていないときは、露骨に(文字通り)その一挙手一投足を目で追っていた。
最初に誰かが「足」に直に言及したのは、転校初日から一月近くも経った頃だった。
放課後だった。
その日は、特に何をするわけでもなく、ミケラちゃんとわたしを含む男女が7、8人、教室に残っていた。男子生徒らは、教室の隅で何かの遊びに興じ、女子は教室の前の方に散らばって、めいめい絵を描いたり本を読んだり、先生用のボードに落書きしたりしながら、ポツリポツリと会話していた。
そうして1時間もたったころ、遊びに区切りがついたらしい男子らが、おもむろに帰り支度を始めた。それにつられる様に、私たちものろのろと支度を始めた。色鉛筆やカラーペンを広げて絵を描いていたミケラちゃんが、一番片付けるのに時間がかかっていたと思う。別に全員一緒に帰るわけでもなかったが、なんとなくそこにいたみんなが、ミケラちゃんを待つような感じで、無言で近くの机の上に座ってみたり、誰かが忘れていったらしい上着をフックから外して広げ、また戻したりしていた。
「ミケラちゃんさあ、」
おもむろに男子の一人が口を開いた。そして尋ねた。
「トイレ入ってるとき、足どうなってんの?」
瞬時に沈黙が私たちを固定した。その男子生徒を振り返る者と、ミケラちゃんを見つめる者とに分かれはしたが、全員微動だにせず、息を詰めて、続く一声を待った。わたしはといえば、たまたま眺めていた、淡いサーモンピンクとくすみ始めた空色が混じる若い夕焼けに、視線が居着いたまま動けなくなっていた。窓の外を見やる直前に視界に入ったミケラちゃんのカラーペンの束が、瞬きも忘れたその眼底に張り付いていた。
ーつづくー