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骨壺 1

「ユウコの”ゆう”は、”遊ぶ”と書きます」

病院の窓口でわたしの名前を告げる際、そう言い添える祖母の横顔を、わたしは左斜め下から見上げていた。小学校に入るか入らないかの頃。祖母との原風景の一つだ。今も時々何の前触れもなく、残像のごとく浮かび上がってくる。なぜ、祖母の街の医者に、自分がかかることになったのかは忘れた。6歳くらいの頃、叔父と叔母と、居間でふざけあっているうちに、テーブルの角に後頭部を強打したのを覚えているが、それと無関係でないような気はする。 

数回の流産死産の末に生まれた第一子が、わたしだった。出産当時、母は20代後半、母にとっての義父である祖父もまだ若く、当初は、小姑含めての同居だったと聞いている。私自身は、伯母たちと暮らした記憶は一切ないので、わたしが生まれる前か生まれた直後に、結婚して実家を出たのだろう。

幼い頃、頻繁に母の実家に連れて行かれたのは、「長男の嫁」という、母の窮屈な立場と、母方の祖父母が、初孫であるわたしの来訪を楽しみにしていたことなどが理由だったと思われる。

まだ還暦をすぎたばかりの祖母は、諸用にわたしをよく一緒に連れて歩いた。行く先々で、祖母が知人に、「これ、おめさんの孫だかね」とか、「へぇ、こんげおっきなったかね」などと言われていたのを、うっすら記憶している。

遊びにもよく付き合ってくれた。

7歳の、ある曇った生暖かい午後。近所の公園に祖母といた。わたしが一人で遊ぶのを、祖母は少し離れたところで見ていたと思う。そのうちわたしは、高さがわたしの身長とそう変わらない低い滑り台のスロープ部分を、駆けて上り下りするということを繰り返し始めた。祖母の「気ぃつけるんだいや」「転ぶなよぉ」という忠告を尻目に、何度も何度もスロープを走って上り下りした。それに飽きる頃、また祖母の声が耳に入ってきた。

「若いっけ、体が利くねぇ」

若いからではない、これが簡単だからだ、というのを祖母に分からせたいと思ったのだろう。わたしの興味は、今度は、祖母にも同じことをやらせることにシフトした。「簡単だっけ、やってみれて」と執拗に繰り返すわたしに根負けして、祖母は、階段の方から滑り台の頂点まで登ってきた。そして、その、高さ1メートルちょっと、長さが2メートルほどの滑り台を、数歩でダダダっと駆け下りた。

「ほら、簡単だろっ!」と言いかけた瞬間、祖母は、最後の一歩で足をもつれさせ、降り口にしかれた砂の上に、肩で着地した。わたしに背を向けるようにして、横向きにドスンと。のっそりと起き上がった祖母は、灰色と藤色が混ざったような地味な色の生地に包まれた肩をおさえて顔をしかめていた。自分が転倒した経験のほとんどない、なかなかに運動神経のよい子供だったわたしは、そのレベルの転倒など、さっさと起き上がって、打ったところを撫でておけば、なんともないものだと見切った。なので、すぐに祖母に再挑戦を促した。

「ダイジョブら?もっと、ゆっくり降りれてー」

しかし、祖母が受けたダメージは、わたしの物差しで判断した以上に大きかったらしく、そのまま祖母は、わたしを一旦連れて帰った。その後、医者へ行ったのかどうかは覚えていないが、夕食の席で、「いつまでも若くねぇんだっけ」、「孫と一緒の気ンなってんな」などと、家族にたしなめられていたのは覚えている。それ以来、わたしが祖母に自分の真似をさせることはなくなった。

2/3へ続く


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