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ミケラちゃん 2

とうとうこの時が来た。

ぼんやり想像してきた「その時」は、唐突に、でも、あっけなく広がった。

やっと、誰かがミケラちゃん本人に向かって、足に対する疑問を口にした。これで、少なくともここにいる全員は、それまでの見て見ぬ振りという葛藤からは解放される。 

でも、それからどうなる?

「その瞬間」が来たら、自分もそこにいるであることを、想像の中では疑いもしなかった。漠然と思い描く情景の中で、口火を切るのはわたしではない誰かだった。そして実際そうなった。しかし、どの程度のマグニチュードの言葉でもって「足の話」が起動するのか、また、自分は、傍観者として何を思うのか、そういった事後のことには全く思い及んでいなかった。

もしかして、今、ここで、誰かが傷つくのだろうか。そして、それはやっぱりミケラちゃんなのだろうか。そんな恐れを自分の中に感知すると同時に、不満も微かに吹き上げてきた。

なんで!

何だってよりによって、こんな無遠慮なことを最初に持ってくるんだ!例えば・・・もっと答えやすそうなことを聞いてくれてたら、他の人も続きやすかっただろうに!

多分、わたしは、休み時間とか学校からの帰り道とか、ごく限られた人数しかいない状況で、誰かが、例えば、「スキップってできるの?」といったような、もっと、ずっと、なだらかな質問をするものと、どこかで期待していたのだ。もっと無難で、ミケラちゃんのいつもの穏やかさで応じられるような質問で、そして、どこにも誰にも居心地の悪い思いが残らないような、そんなハッピーエンドをぼんやり思い描いていたのだと思う。しかも、それを誰かが実現して、自分の中のミケラちゃんに対する葛藤を取り除いてくれることを夢想していたのだと思う。

ということは、だ。わたしの興味は「誰かが自分の葛藤を解消してくれること」であって、ミケラちゃん本人の気持ちなんかどうでもよかったということにはならないか。面白半分、そして利己的に、「その瞬間」を待ち望んでいたということにはならないか?

わたし、すごい意地悪だ。

自分の中にあるドロドロの底意地の悪さが、空のサーモンピンクに加わりつつある重い橙に映し出されているようで、そして、それが、そこにいる全員にバレているようで、だから、わたしのほうを、今、多分心細げに見ているであろうミケラちゃんに視線を向けるのが怖くて、わたしは、やっぱり遠くの空を凝視しているしかなかった。

でも・・・ わたしは、意地悪なことを実際にしたわけじゃないから。

ふーん。

本当に?

今、この瞬間も、この好機がもたらす成り行きに、先の見えないスリルに、興奮しているだけじゃないの?だから、ミケラちゃんを無視して、夕焼けの向こうに逃げ込んだまま、次の展開を期待しているんじゃないの?

それは、意地悪じゃないの?

今のわたし、ミケラちゃんにどう見えているんだろう。 聞こえなかったフリをして、空を眺めてるように見えるのかな?

ああ・・・。

ミケラちゃんのペンを片付けるのを手伝って、あと30秒早く帰り支度が出来てたら、今頃は楽しく家路についていたかもしれないのに。

でもやっぱり。

意地の悪いのは、わたしだけじゃない。

ここにいる全員、似たような疑問を持っていたはず。 誰かが「そこ」に踏み込むのを、待ってたはず。 そして、誰もそのあとのことまで想像してなかったはず。

そうだそうだ。

だから、みんな何も言えずに、こうして黙って突っ立ってるだけなんだ。

空がどんどんどす黒く染まっていくのは、わたしだけのせいじゃない!

そもそも、だ。 あのデリカシーのない質問のせいで、みんながこんなに意地悪になってしまったんだ。 

ああもう、なんだか、腹が立つ!

感情の焦点が定まらず、依然わたしは窓の外の意地悪な空に居着いたままだった。もし、視線を教室に戻したら、みんなのうちの誰かを見なければいけない。それがミケラちゃんになるのが、こわかった。

でも、そんな濁流の中、一つ、はっきりと直感していた。

「ミケラちゃんに答えさせちゃいけない」

ミケラちゃんが答えてしまったら、この無神経な質問は、禁断かつ待望のトピックの突破口として、こいつの手柄になってしまう。 

そして!

ここにいる残酷な面々は、この無神経男と、それに応戦した勇敢なミケラちゃんに救われると言うストーリーになってしまう。そんな恩着せがましいのはごめんだ。

かといって・・・

もしも、もしも、ミケラちゃんが言葉に詰まったままうつむいてしまったり、怒ったり、泣いたりしたら、ここにいる全員共犯だ。

だめだ、出口がない。

でも、なんとかどうにか不時着しなければ。

とにかく!

ミケラちゃん。何も言っちゃダメ!

ああ、もう! 頭にくる。誰のせいだ!!

横隔膜から眼球の裏へ、熱くて鋭くて鈍いものが押し上げてきて、そのせいで、さらに重みを増しつつある夕焼けが歪んだ瞬間、声が聞こえた。

「二本足ならどうやってるのか、先に教えてあげなよ」

どうやらわたしは、無神経男の方へ、何か言ったらしい。

視界には空ではなくて、見慣れたクラスメートの顔が3つ4つ。私の焦点よりやや右にずれたところに立っているミケラちゃんが、こちらを向いているのも分かる。ミケラちゃんだけでなく、そこにいた全員がこっちを見ていた。ああ、そうか、わたしが言ったんだな。うん、そうだ。わたしの声だった。

一瞬の間をおいて、他の男子らがゲラゲラ笑い出した。そしてそのうちの一人が悪ノリするように続いた。

「そうだよなあ。人に聞く前に、まず自分からやって見せなきゃなあ。お前、トイレどうやってんの〜?」

今度はミケラちゃん以外の女子が2人、はしゃぎだした。

何が面白いんだ!

わたしは、自分の意地の悪さを償うために、絶望的なまでにデリカシーを欠いたこの状況と、今、精一杯戦っているところなのに、なんでそんなにキャラキャラ笑うんだ!

女子って汚い。

絡みついていた緊張から逃れるようにヒステリックに笑うその女子2人の向こうから、多分驚きと困惑の表情でこっちを見ているミケラちゃん。ミケラちゃん、ねえ、気づいて。本当に残酷なのは、わたしじゃない。この2人だ。わたしは、ミケラちゃんを守るために、反撃したよねえ。わたし、まだ友達でいていいよねえ。

わたしは、ただただ「お前が先にやってみろ」という挑発に、無神経男が乗っからないことを祈った。もし、その男子が「いいよ、ほらっ」なんて軽く応じたら、サイはまたミケラちゃんの方へ戻されてしまう。だから、お願いだから降参して。みんなわたしのせいなんだ。そもそも、わたしのせいになったのは、あんたのせいなんだから!

そんな悲痛をよそに、男子たちは「お前こそやって見せろ」とか、「なんで俺が」とか、そんなことを叫びながら、戯れながら、追いかけっこしながら、あっという間に教室から出て行ってしまった。

わたしの目の奥の暗くて熱いものは、急激に減速し、そしてあっけなく鎮まった。すると、今度は、その空洞を埋めるように、鼻腔に痛痒い圧がかかって、そしてわたしは、棒立ちで泣いていた。そこからしばらくは覚えていない。

次の記憶は、ミケラちゃんが、嗚咽するわたしをなだめながら、二人一緒に帰途を歩いているところから始まっている。

「泣かないでよー」

「なんかありがとうねー」

柔らかな声で話しかけてくれるミケラちゃんに、残酷で卑怯な自分を知られたくはなかったし、かと言って、泣いてる適当な理由を見繕う余裕もなく、わたしは、ただ、「だって」とか「ひどい」とか、断片的に口にしていたような気がする。

何を言ったのかほとんど覚えていないが、「ごめんね」だけは言えなかったのは覚えている。だって・・・もし「なんで、あやまるのー?」って優しく聞かれたら、どうやって答えていいか分からなかったから。本当の答えを言えるはずもなかったから。

先にミケラちゃんの家についた。目をこすりすぎて、下まぶたの薄皮が赤くひりついているわたしに、ミケラちゃんは何度も「大丈夫?一人で帰れる?」と確かめてから、門の中へゆっくりとあとずさって行った。

わたしのほうも、ゆっくり遠ざかろうとすると、突然ミケラちゃんは、こちらに駆け戻ってきた。

「あのね、いっつもおトイレの時ね、わたし、こうやってるの」

勢いよくはっきりそう言うと、ミケラちゃんは家の前で、トイレ中の体勢をつくってみせた。「べつに、みんなに教えていいからね」そう言ってニヤリと笑い、「また明日ねー」と言い残し、ミケラちゃんは、家の中に消えていった。

いつも、おっとりお行儀のいいミケラちゃんが、あの一瞬だけ、とても好戦的に見えた。

なんだかどっと疲れて情けなくて、わたしは弱い自分を引きずって、夕飯に間に合うようにトボトボと歩いた。

その晩、トイレに入った時、ふと思いついて、ミケラちゃんがしたようにやって見たが、バランスを崩して、狭いトイレの壁にバンッと手をついてしまっただけだった。その日の記憶は、そこで途切れている。

後日、あの日はしゃいでいた女子2人が、「失礼なことを聞かれても取り乱さなかったミケラちゃん」という体の美談を、「その場に居合わせたラッキーなわたしたち」という視点で得意げに吹聴してくれたおかげで、ミケラちゃんの存在は、いよいよクラスで認められていった。そんなミケラちゃんと、あの日以来急速に仲良くなったわたしは、前よりもクラスの中心に近いところにいるようになった。わたしを通してミケラちゃんの足に関する質問をしてくるクラスメートも出てきた。それを、わたしがミケラちゃんに聞き、ミケラちゃんの答えをわたしが代わりにみんなに説明する。そんな風にして、ミケラちゃんとわたしの友情は、さらに深まった。

ーつづくー  

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