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Part 4『私を変えた挫折と出会い』

「DRAMA QUEEN」で見出せたアーティスト像が確信に変わる2018〜19年。
オーディションで芽生えた疑問や、コラボをきっかけに変化した心境をお話します。

聞き手・原稿◎高木“JET”晋一郎

“ライフステージが変われば、それは絶対に歌詞や曲に反映される”

 「DRAMA QUEEN」以降は、だいたい2ヶ月に1曲ぐらいずつのペースでコンスタントにリリースをしていました。「それぐらいのペースでリリースしなくちゃ忘れられちゃう!」というより、「良い曲が出来たから出そう」っていうシンプルな気持ちの方が強かったし、それが出来るペースが2ヶ月に1曲ぐらいだったんですよね。日常の中で曲を作っていって、それが完成したらみんなに聴いて欲しいからリリースしよう、っていう。デジタルリリースだからこそ、それだけフレキシブルに動けたっていうのもあります。
 そうやってリリースを続けていく中で、SNSやライヴでの反応や感想、それからサブスクリプションサービスのデータを通して、自分のリスナー層みたいなものが見えてきたんですね。私の曲は年齢や性別問わず、幅広く聴いてもらえてるんですが、当時の新規リスナーになってくれた方々の多くは20代から30代の女性。それは「DRAMA QUEEN」のときにもボヤッとは見えてたんですが、届いたり刺さってる層が色んなデータをもとによりクリアになってきて。あとInstagramの質問機能で「普段はどんなことをされてるんですか?」っていう質問を投げたら、「OLです」とか「学生です」、「子育てしてます」みたいなレスポンスも貰えたのもその理解としては大きかったかもしれない。
 だからといって、そこで「そういう世代やリスナーに向けて曲を作ろう」とは考えていなくて。そう考えるのって、クリエイションとか創作というよりも、ビジネスやマーケティングになってしまうと思う。それよりも私は「自分のリアル」をそのまま書いていきたいんですよね。いまは自分も20代の女性として歌詞を書いてるから、同じような世代だったり境遇の人に刺さってるんだと思うし、それはすごく嬉しい。でも、自然と歳をとったらその内容は変わっていくだろうし、例えば、いつか子供が出来たりライフステージが変われば、それは絶対に歌詞や曲に反映される。そうなると「いまのASOBOiSMの楽曲」を求める人のニーズとはズレていくのかも知れないけど、それでもいいし、そうやって変化した歌詞にフィールしてくれるリスナーも絶対いると思うんですね。だから「自分のリアルを書く」っていうことにずっと集中したいし、そこはブレないようにしなくちゃなって。そして、その「自分のリアル」に共感してくれたり、力になったと感じてくれる人がいるなら、その表現は正直じゃなくちゃいけないと思うんです。

“そこにハマる必要はない、アウトサイダーでいい”

 その気持ちが確信になったのは、2018年の「出れんの!?サマソニ!?」のオーディション(2017年にも出場)でした。それまではとりあえずオーディションに受かれば、いろんな人が注目してくれたり、事務所やイベントがフックアップしてくれて、「売れる」ラインに乗れるんだろうなって考えてたから、いろんなオーディションを受けてて。でも2018年の「出れんの!?サマソニ!?」のオーディションに失敗したのがとにかくショックで。2017年には最終選考まで通ったのに、翌年は全然通らなかったし、評価も悪くて、かなり落ち込んだし焦りも感じて。オーディション後は何が悪かったのかをしばらく自問自答してました。
 でも、そこで「5分や10分で自分というものを品定めされて、そこで価値が見いだせるのかを判断される」っていうオーディションっていうシステム自体に疑問や虚しさを感じたんですよね。極端に言えば、アーティストがそんなことに悩まされる必要があるのかな、って。そこで「疑問を持つ」っていうことが、自分の中で大きなテーマになったんですよね。それはオーディションっていうシステムだけじゃなくて、社会や状況、自分に関わる環境すべてに疑問や矛盾を感じるようになって。それまでは、例えば黒髪に染めて、オフィスカジュアルで、ヒールを履いて会社面接にいくことになんにも疑問を感じてなかった。だってそれが社会のルールだと思ってたから。でも「そのルールってホントに必要なの?正しいの?誰が決めたの?」って疑問を持つようになったし、それは音楽に関してもそう。
 そう考えていったら、自分自身としては、そこにハマる必要はない、アウトサイダーでいいって思うようになったんですよね。モラルさえあれば、「なんとなく決められてるルール」みたいなものを意識したり、固執する必要って全然ないんだなって。だからもうオーディションも受けないってそこで決めたし、「FAKE」みたいな歌詞も書けるようになったんですよね。さっき話したような「自分のリアル」っていうものを強く意識して、「自分の想い」をしっかり音楽に乗せるってことを明確に考え始めたのも、そのタイミングだったかも知れない。だから、オーディションに落ちた経験は、自分にとってすごく大きなキッカケだったんだと思います。そこで受かってたら、いまほど物事を考えないで作品作りをしてたかも知れない。だから、上手くいかなかったからこそ、良い作品が作れるようになったと思うし、今のように謙虚に制作に向かえるようになってたのかな?って。

“「みんなで売れていこう」っていう感覚”

 2019年は色んなプロデューサーやアレンジャーとの出会い、そしてフィーチャリングで作品作りをしたことで、繋がりが広がったのと同時に、見識も広がったのが大きかったと思います。夏にはシシノオドシのTACK君を迎えた「UCHOTEN feat.TACK」をASOBOiSMとして、そしてシシノオドシの「Remember Summer feat. ASOBOiSM」にも参加したんですね。その時にシシノオドシと「地元や同世代とかでライバル視してるアーティストっているの?」っていう話をしたら、「沖縄はみんなで一緒に上がっていこうって感じだから、そういう感覚は無い」って彼らは言ってて、それがすごくカルチャーショックだったんですよね。私は横のつながりが弱かったからか、「みんなで売れていこう」っていう感覚は乏しくて。でも確かにみんなで上がっていければ、それは完全にハッピーなことだよな、と思ったし、ポジティヴな意味でのライバル心はあるんだけど、「負けたくない」とか「自分は誰々より劣ってる」っていう、ネガティヴな対抗心は感じなくなって。だからYouTubeで知って衝撃を受けたなみちえちゃんに、自分からアタックして友達になる勇気が出たのも、シシノオドシのその言葉があったからだと思いますね。

 なみちえちゃんとの「HAPPOUBIZIN feat. なみちえ」のトラックはアレンジも自分で手掛けて、いわゆるヒップホップビートに寄せたのは、アメリカに長期旅行に行ったのが大きかったと思います。里帰り的にテキサスとLA、ラスベガスに行ったんですが、LAではずっとヒップホップやブラックミュージック漬けの生活で。Uber(タクシー)のおじさんが車にでかいスピーカー積んでて、E-40とかスヌープ・ドッグの曲を爆音でかけてて、これがリアルなんだな~と思ったし、その影響で「HAPPOUBIZIN〜」や「Whateva♡ feat. issei」が生まれから、その吸収は作家の経験として大きかったですね。

 それから自分のヒップホップの原点であり、戸塚の先輩であるサイプレス上野さんと「TOTSUKA feat サイプレス上野」を作ったのも大きかった。あの曲を作ったお陰で、ヒップホップ・シーンにも自分の作品が届いたっていう感触があるし、ラッパーとして認識されることも多くなって。ただ、だからってラップの曲だけを書かないといけないとは思わないし、R&Bをやりたければそういう曲を作るし、普通のポップスも書くし……って「ソングライター」としてジャンルに囚われないで表現は続けていきたいと思った契機にもなりましたね。
 そして2020年に入ると、アルバムの制作を意識するようになりました。

(Part 5へ続く...)

アルバム「OOTD」はこちら

"PRIDE" Music Video

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