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モノ供養と「別れ方」を思索するワークショップ【むぬフェスレポート】

2024年5月17日〜26日@大阪・應典院にて「産む」から「死ぬ」まで、生きるをめぐる10日間のイベント『むぬフェス』をひらきました。
「産む」にまつわる価値観・選択肢を問い直す展示『産まみ(む)めも』の大阪巡回展に加え、人類学者•哲学者•お医者さん•仏教者•デザイナー•起業家など多彩なゲストとともに、「産む」から「死ぬ」まで、ぐるりと想像力を拡げ、生きるをめぐるための対話セッションやワークショップ...といった表現の場。

延べ人数、500人近くの方に足を運んでいただきました。熱が冷めやらぬうちに、と言いつつはや1ヶ月が立とうとしていますが、企画担当者・運営・参加者..といった視点を交えた当日の様子を振りかえっていきます。

セッション「モノ供養からみる”別れ方”」

5/18日のセッションでは、モノ供養をテーマにしたトークとワークショップをおこないました。モノ供養とは、日本古来の風習です。料理人のなりわいをささえた包丁を供養したり、小さい時から可愛がってきた人形供養の儀礼をあげたり。最近では、ルンバやアイボといったロボットや機械の供養まで出てきています。AI・ロボット・道具・昆虫・動物..身の回りをとりかこむ様々な存在への供養には、日本人のアニミズム的感覚が見てとれます。

特に、モノは暮らしやそのひとの生を支えています。別れや喪失を面と向かって話すのは痛みを伴いますが、モノというクッションがあることで、それをずらした形で語れるのではないか。喪失や別れにストレートに向き合うのはやっぱり大変です。しかも、喪失の痛みは突然やってくる場合、事前のこころ構えや準備だって全くできません。大切なものを失うことは、自分の一部が死ぬようなものです。そんな小さな死を日常の中で小さく体験していくことが、必要な向きあい方への訓練にもなるのでは..と思いました。

加えて、先述した人間以上の存在たちへの供養心から、これからの日本の葬送文化を捉え直すきっかけにもなるかもしれない。そんな背景で、「モノ供養」を切り口に、企画しました。

当日は、まず正覚寺住職・ジャーナリストの鵜飼秀徳さんをお呼びして、日本の多様な供養の事例を紹介いただきました。鵜飼さんは「絶滅する「墓」: 日本の知られざる弔い」といった著で、寺社仏閣界隈(?)では非常に影響力のある方。毎度多角的な視点をとりいれた事例を交えながら論を展開されています。その鵜飼さんの一冊に「ペットと葬式」があります。今回は、この本がベースになっています。

バッタ、メガネ、日食、微生物...供養からみる弔いのこころ

鵜飼さんからは、「日本の供養〜バッタを葬り、メガネを弔う〜」というタイトルで45分のお話をいただきました。人間の葬式は簡素化する一方で、近年、ペットの葬式がブームになっている...といった多死社会の最中で希薄化する人間関係と裏腹な現実の問題提起からスタート。

忠犬ハチ公の葬儀は非常におおがかりなものであったこと、不忍池にある両生類のお墓、伊勢のマグロ供養、立石寺の蝉塚、京都の花塚、さらにはメガネ供養塚に菌塚、道路といったインフラの供養...。ひいては日食供養なんてものも出てきました。

日食は、当時科学的に現象が判明されていない時代、自分たちを活かしてくれているお天道様が、自分らの身代わりとなって悪霊や疫病に食われている(おかげで自分たちは無事なのではないか)といった世界観から出てきているとのこと。なので、日食というよりは「太陽を供養する」といった感覚なのでしょう。それだけ、農で暮らしを営んでいた時代に、お天道様と日本人は切り離せない関係性だったことが見てとれます。

最後に、鵜飼さんは弔いのこころが薄れたわけでなく、人間関係が希薄化したことで人同士の葬式が簡素化していっていることを指摘します。逆に、日本人は山川草木と古来から深い縁を結んできたことと、人間関係からペット含めた類縁関係への縁の深まりといった時代の潮流が合流してきたこと。そこから、ペット葬式ブームにつながっているのではないか。
供養や弔いは、相手を想う気持ちがなければ、成り立ちません。

なぜなら「わざわざ」やるものだから。なくてもいいっちゃいいわけです。でも、やらなかったら相手とお別れできなかったり、心苦しさが生まれたり、縁が途切れてしまうように感じたり、きちんと向こうの世界へいってほしいという願いだったり..多様な想いからはじまるのだと再認識できました。

鵜飼さんによる話題提供の後、事前応募していた少数の参加者とともにワークショップへうつりました。

白杖から免許証まで。個々人が別れを告げるモノを持ち寄り、供養の儀式をつくる

ワークショップは1時間半程度。まず、参加者で円になり、参加の背景をわかちあいました。その後、2つのグループに別れ、事前に持ってきてもらった「供養したい/別れをつげたいモノ」やそのストーリーを紹介します。円の真ん中にクッションをおき、モノをクッションに配置して中心にしながら、語りを聴き合いました。

たとえば、以下のようなモノとストーリーが持ち込まれていました。

サイズの合わない白杖:視覚障害をもつ小学生の男の子が、成長期ゆえに短くなった白杖に別れを告げて、新しい白杖を手に取れるように。

看護師免許:70歳を超えて現役看護師で働いている方が、後身のポジションを奪っていることの懸念から、職への未練と執着を手放すために。

その後、10分程度で各々、供養したいモノへの「別れの手紙」をしたためました。それぞれが自らの言葉で、モノに対しての別れを告げる。ある方は、これまでの来歴を、ある方は感謝を、様々な想いを綴ります。

その後、一人ひとりが供養の儀式をつくります。儀式は、常に一定の手順をふんでいくもの。最初にこれをやり、つぎにこれをやり..と日常のモードから別のモードに遷移していくための時空間をたちあげる技法です。ゆえに、別れを告げたり、何かをはじめたり、心持ちや関係を変えるきっかけとして、すぐれている古来からの知恵でもあります。

今回は、モノ供養の儀式などで行われる要素を示した、簡単な儀式メソッドカードを手渡し、参考にしつつ、各々が何をどの手順でやるかを考えました。別れの手紙をよみあげることは、マストにしつつ、提供した備品のなかでろうそくに火を灯す方もいれば、おりんをならすところから始めようとする方なんかも。

儀式のパフォーマンスを実演し、お焼香でしめる。

短い時間で試行錯誤したあと、グループ内で順に儀式の実演をしてみます。

「特に白杖の先端や持ち手の紐に愛着があるんだ」と語っていた小学生の男の子。彼の供養は、なぜか持ち運んでいたシンギングボウルをならすところから始まりました。その後、別れの手紙を読み上げ、白杖を別れの手紙で包んでこすりながら「ありがとう」と感謝を述べます。最後に、別れの手紙を紙飛行機にして折って、宙に飛ばす..といった形で終わりました。

最初は”供養や別れ”という言葉から来るのが怖い...と不安だったそうですが、実演した後には「次の白杖を気兼ねなく、気軽に買える気がしている」と小学生の彼は語ってくれました。

また、昔おこなった展示のポストカードをもってきたデザイナーの方。彼女は、なかなか昔のポストカードが捨てられないこと、また社会人になって忙しくなり、個人の制作ができないことから、過去おこなったことに踏ん切りをつけたい気持ちがあったのでしょうか。
50枚ほど持ってきていた展示ポストカードを、テープで全部縦につなげていきました。その数mになったポストカードを道と見立てて、靴を脱いでランウェイさながらに歩いていきました。

彼女は「供養の儀式って、なにか大切に、丁寧に行うことだと思っていました。もちろん気持ちとしてはそうなんだけど、ランウェイというか踏み絵のようにふんで歩くことで、ふんぎりがつけられて、未来に向かっていけそうな感覚が立ち上がってきました」と、振り返っていました。

最後に、全員で再び円になり、モノを真ん中のクッションにあつめます。
そして、應典院の秋田住職にお念仏をあげてもらいながら、一人ずつ座ったままのかたちで、お焼香をまわしました。

おわりに 

別れって、実際は日々の中に無数に存在しているのだと思います。ぼくたちは、いきものやモノと無数に関係しあっているから。しかし、普段よくやり取りする同僚や友人、恋人や家族..といった関係以外に、名前のついていない関係には目が向きづらいことも確かです。
「普段、大事にしたいことを流してしまっていることに気づいた」、とある参加者はワークショップ振り返りながら話していました。

関係の数だけ、おそらく別れもあるでしょう。また、「ちゃんと別れたほうがいい」けれども、別れないままにしてしまっているものごともあるでしょう。先日は、サイレントグリーフ(暗黙的な喪失の痛み)という言葉も知りました。無意識に、別れたこと・失った物事や関係..の痛みを抱えていることだって、ぼくたちにはたくさんある。人間、そんなに理性的に自分の状態を把握できるほど、立派につくられてないってことです。

だからこそ、ある方が「新しい関係性が生まれたような気がしている」と感想をシェアしてくれたように、些細で流してしまうような関係をすくいあげること。そして、別れに向きあい、今を生き直す活きるちからになっていくような時間。そんなことを大切にしたいと感じました。

かいたひと:川地真史
一般社団法人Deep Care Lab代表理事 / 公共とデザイン共同代表
Aalto大学CoDesign修士課程卒。フィンランドにて行政との協働やソーシャルイノベーションを研究の後、現在はエコロジーや人類学、未来倫理などを横断し、あらゆるいのちへの想像力とケアの実践を探求。渋谷区のラボ設立伴走、産むを問い直すデザインリサーチ「産まみ(む)めも」、應典院「あそびの精舎」構想/運営、「多種とケア展」開催などプロジェクト多数。論考に『マルチスピーシーズとの協働デザインとケア』(思想2022年10月号)、共著に『クリエイティブデモクラシー』(BNN出版)。應典院プログラムディレクター。

All Photo by Rikuo Fukuzaki

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「むぬフェスは、浄土宗・應典院とDeep Care Labが協働する「あそびの精舎」構想の第一弾企画として実施されました。「あそびの精舎」構想では、多世代が混じり合い、あそびをつうじて、いのち・生き方・暮らしの3つの”ライフ”をわかちあうコモンズの拠点として、また、お寺をリビングラボという社会実験の場に仕立てていくべく、活動を展開中。秋には芸術祭も行います。

ご関心ある方やこんなことを一緒にできそう!とピンときたら、
ぜひwebサイトよりお問い合わせください。


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