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渋谷がまだ武蔵野だったころ

国木田独歩「武蔵野」

 昔の武蔵野は萱原(かやはら)のはてなき光景を以(もっ)て絶類の美を鳴らして居たように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林(はやし)である。林は実に今の武蔵野の特色といっても宣(よ)い。

 国木田独歩(1871-1908年)の代表作と言われる初期短編「武蔵野」は、独特の文体で綴られた小説だ。本人ですよね、と思わせる一人称の視点で、自然の身近な武蔵野に暮らす日々を描いている。散歩して、景色をめでて、沈思黙考する。とくにドラマチックなことは起きたりしないけれど、多くの人の日常もそうだろう。結局は、当たり前の日々に楽しさや美しさを見いだせるかどうかが「リア充」のカギだったりするわけで。そういう感覚が別に新しいものではなくて、そうかそうか明治30年代からあったんだなぁ、と妙に納得させてくれる名作。

 うたいあげられるのは、雑木林の美。春に新緑が映えて、秋には色を変え、冬には落葉する。四季の変化が楽しめる林を、独歩は縦横に散歩する。林と野がバランス良く存在し、生活と自然とがこのように密接している場所は、武蔵野のほかにはないと大絶賛である。

 読んでいると、いやぁ、武蔵野いいなぁ。やっぱり都会すぎるのもちょっとなぁ、とか思ってしまう。なんとなく、東京でも西の方の、丘陵地とかを連想する。でも、独歩が住んでいたのは〈渋谷村の小さな茅屋(ぼうおく)〉。しっかりそう書いてある。渋谷!?大都会すぎるではないか。

 渋谷駅の忠犬ハチ公前からスクランブル交差点を渡る。いつ来ても大混雑。センター街の雑踏を抜けて、さらに歩く。繁華街の雰囲気が少しずつ薄れてくる。NHK放送センターの角まできたら右折。渋谷区役所に向かう坂道の途中に、「国木田独歩住居跡」と書かれた柱が立っていた。ぐるっと見渡すが、緑というのは街路樹かビルの合間の植栽ぐらいしか見当たらない。でも、せっかくなので、ガードレールに腰掛けて、持参の文庫を開く。

 鳥の羽音、囀(さえず)る声。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。叢(くさむら)の蔭、林の奥にすだく虫の音。空車荷車(からぐるまにぐるま)の林を廻(めぐ)り、坂を下り、野路を横切る響(ひびき)。

 そんな武蔵野は、もうない。だけど、ああそうか、坂道だ。坂は残っている。渋谷はいまでも「谷」だった。100年を飛び越える風景の断片。

 独歩は、こう書いていた。〈昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら、それは想像にも及ばんほどであったに相違あるまい〉。だけど、いま見ている美しさや詩趣だって、自分を感動させてくれる。だから〈武蔵野の美(び)今も昔に劣らず〉。

 渋谷駅に戻る途中に目にした植栽に、紫陽花が咲いていた。

                         2019.6.6 夕刊フジ



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