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山歩きには電子書籍がいい
中里介山「大菩薩峠」
大菩薩峠は江戸を西に距る三十里、甲州裏街道が甲斐国東山梨郡萩原村に入って、その最も高く最も険しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
中里介山(1885〜1944年)の時代小説「大菩薩峠」は、そんなふうに語り始められる。ときは幕末。深山の峠道を若い武士が一人登ってくる。色白で細面の男は、後から登ってきた巡礼の老人をいきなり斬殺する。この非道な辻斬りこそ、主人公の机竜之助だ。
「音無しの構え」という無敗の術を使う竜之助は、破天荒な剣豪。奉納試合での慈悲を願ってきた対戦相手の内縁の妻、お浜を手ごめにしたあげく、試合では相手を叩き殺し、そのうちにお浜を妻として暮らす。いつの間にか新徴組の一員になったりする。辻斬りもやめない。無頼派のエンタメ小説は、大正2年から新聞で連載されて人気を集め、約28年も書き継がれてなお未完という超大作となった。大菩薩峠が出てくるシーンはそう多くないが、タイトルになっているので、読者は事あるごとに主人公の悪逆を思い出すことになる。
「与八さん 、いつか一度あの大菩薩峠へ、わたしをつれて行って下さいな 」 「あんな山奥へかい 」 「わたしは 、もう一ぺんあの峠へ行ってみたい 」
私も行ってみたい。与八さんはいないから、一人で青梅街道へマイカーを走らせた。奥多摩から一度甲州市に抜けて登り返し、市営駐車場やバス停がある上日川峠から入山。都内は晴天の猛暑日だったのに、峠は小雨模様。視界も悪く、人影はまばらだった。日本百名山のひとつ、大菩薩嶺(2057メートル)への登山路にもかかわらず、静まり返っている。おかげで山奥の雰囲気をたっぷり味わえた。
霧に包まれた峠も無人。鎮座している首のない石像が怖すぎる。少し尾根筋をたどったところで「名作発想の地」と刻まれた大菩薩峠記念塔も見つけた。幸い雨は止んだので、座ってタブレット端末を開く。文庫本は置いてきた。山歩きには電子書籍が合う。私の端末はカバー付きで約700グラム。何冊ダウンロードしても重さは不変。全41巻という超長編だって軽々だ。小屋にでも泊まらないと読み通すのは無理だけど。
舞台となった土地を知ると、作品の印象も味わいも変わる。しばし冒頭部の再読を楽しんでから下山。峠道をのんびり歩いていると、ガサガサッと藪が音を立てた。立ち止まって樹間に目を凝らす。鹿が4頭、向こうもこちらを睨んでいた。小説では峠には猿がよく出ることになっていた。人間と獣が近く感じられる場所なのは、今でも変わらないようだ。
2019.8.5 夕刊フジ