福祉に関わる人≠尊い仕事をしている人
お仕事はみんな尊い。もしそう思えなかったら、自分の近くの人にありがとうを言えてないのかも。
自分の仕事について人に話すと、よく「尊いお仕事をされてますね」って言われて、ありがたいことだなと思うけど、違和感も感じる。私は障害者を助けたいわけじゃない。そういう思いからこの仕事を始めたわけでもないし。
多分、その人がその人として人生を全うする力を発揮するには、子ども時代をどう育ったらいいのか、そして大人になったらどう日々を生きればいいのか、一緒に(勝手に?)実験し続けているだけ。どう育つか、どう生きるかに、いい・悪いもないのが前提だけど。
結果的にありがたみを感じてくれる人がいるから、日々「ありがとう」と言われる仕事が出来ている。これは本当に幸せなことです。
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そしてこの実験に、障害の有無は全く関係ない。
子ども時代をどう育ったらいいかに正解も不正解もない。「育てる」という言葉もおこがましいくらい、子どもは勝手に育っていく。
でもやっぱり環境の影響は大きいし、大人のかける一言で子どもは傷つきもすれば、びっくりするほどの成長を見せることもある。だから子どもを保護下に置く大人の役割と責任は大きいと思っている。
この点に関しては、日本で新潟県上越市の森のようちえんを、フィンランドで複数の学校を見に行ったことは考察を得られる良い機会だった。
一応18歳で高校卒業の年齢となると、今度は自分で自分を育んでいくことになる。いわゆる自立ということで。それまでは社会の中で自分を生かしていくための術を学ぶ期間として、十分与えられたことになっている。
これが長いか短いかに個人差はあるけど、今の社会システムを考慮すると、まぁ概ね18〜22歳くらいだろうか。
そこからその人として生きていくことがいかに人生を全うできるかにつながっていると思う。
この点に関しては、学生の頃に高校生のキャリア教育に関わるプロジェクトに参加したことは大きい。またもっと生きる力をつけてほしいと思って開催したCSIサマースクールも同じ思いから来ている。
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そんなわけで、ラッキーなことに社会に出てから総じて仕事が楽しくなかったことはありませんでした。
日々の細々した愚痴や悔しさで頭が爆発しそうになる瞬間はよくあったけど(笑)あたたかく見守られながら乗り越えさせてもらいました^_^
自分の仕事に価値を感じられないとき、もしかしたら一生懸命すぎて見えてない部分があるかもしれない。心の余裕を失っているかもしれない。
そんなときは決まって、身近な人にありがとうを言えていない気がします。
行き詰まったときは、そんなことを考えます。