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参照可能な思索の前進について

2021.11.22

 かねてより、僕の目標は社会問題の解決にあったけれども、社会問題とは紐解いていけば、「だれかある人が十全に人生を全うできない環境」の換言である。「十全に人生を全うできない」とは自己実現できない、あるいはそのための努力に献身できない環境を強いられていることであり、自己実現は前章で述べたように、これまでの人生を振り返って捉えなおす作業と、未来時点から同じ作業を行ったときに同じくなるよう努力することの2ベクトルがある。(前者は完成された状態であり、後者は未完であることを埋めんと動作することそのものを指している。つまり、「満たされていながら満たされていない」という状態であるわけだが、このことは決定的な矛盾にはならない。時系列は認識とともにその瞬間瞬間ではなくなっていくのと同様である。)個別個別の社会問題に課題を絞り込むべきだ、という話は、つまりそれを具体化しようとしたときに、どの領域のどの人を助けることができるかという個別個別の方法論である。これは、決定しなければデータを収集することもできないけれども、この個別個別を実行していくことと、社会像を思い描くことの間に矛盾はない。しかしながら、社会像が「為せない大儀」とならないように、留意しなければならない。

 然しながら、ここまで数日書き連ねてきた散文が、それでも文章化していることによって思考の過程として記録され、すなわち「参照可能な思考」として残り、日々の経験と対照されて新たな視座へ到達しているのは素晴らしい効果だ。この文章は可能な限りPCで記し、内容のいかんを問わず、文字数が到達するまで記している。考えが大雑把になれば文字数がその分少なくなるので、到達するためには思考を緻密化するか、新たな思考をしなければならない。思考は動的であり、悩みと思考はその点で異なる。思考は領域を明確化するので、領域外を記せば必然的に言語は積み上がるものであるし、それらを参照すれば日々抱える問いの答えはかなりの率で見つかる。一方で悩みとは、静的であり、状態である。言語を蓄積した結果どのような境地に達したとしても、それを否定し、心的不安の状態であると位置づけること、あるいは、そうせざるを得ない「環境としての詰み」が近くにある状態が悩みである(例:この世に一つしかないお皿が壊れてしまった)。

 閑話休題。前段で述べたように、僕があるべきだという社会の抽象的な状態は明らかになっており、自分の中にその感覚は落とし込めているものの、然しながらそれがどう実現可能であるかという点については(個別個別の方法論という意味においても、それを統合するという意味においても)まだ未検討であり、僕の思惟が足りていないと友に指摘される要因になっている。このことについては、間断なく具体的な知識を吸収していく他にない。思考が早熟である者は、データを収集する努力を見落とす場合が多い。思考とは知識の広さと検討の深さの掛け算であるが、検討の深さは無知でも無知なりに大きくできる値だからだ。知ることの営みは連綿と続くものであって、知を志す限り僕は安定と超克の狭間を揺れ動いている。

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